梵天のオバちゃん、再び~痴漢撃退の真相~


※「学習しない女」のトキコ視点のお話。


 『梵天のオバチャン』こと時任トキコは、この日もいつも通りの流れで廊下を掃除していた。昔は沢山の悪さをして名を馳せた不良少女でも、意外と真面目な一面がある。一度交わした約束は絶対に破らなかったし、身内と認めた仲間は決して裏切らなかった。そういう律儀な性格は普段の生活にも自然と現れる。大人になった現在も同じであり、誰に言われたわけじゃなくても、日々の作業は自分なりのルーティンをきっちりと守っていた。

 だが数分前。このルーティンを自ら崩したのは、今のトキコが愛してやまない男、灰谷蘭が事務所に顔を出したせいだった。エントランス付近を掃除していたトキコは、蘭が顔を見せるや否や、速攻で普段のルートから大幅に外れ、徐々に移動を開始。数分後には蘭の入った部屋のドアにしっかりと張り付き、聞き耳を立てていた。

「ハァ? 痴漢だ?!」
「そーなんです……っ!」

 ドアに耳をくっつけていると、中から愛しい蘭と騒々しい女の声が聞こえてくる。。トキコの永遠のライバルだ。今日も愛しい男と仲良くしゃべり出す小娘に、嫉妬の炎がメラメラと燃え盛っていく。

「どこのどいつだ、そのクソ野郎は……! 顔は? 見たのかよ?」
「……見てない……。追い越しざま手だけ伸ばしてきたって感じだし、ビックリしちゃって……」
「……チッ。オレののオッパイ揉み逃げとはいい度胸してんなァ、そのクソガキ」

(はぁぁ……?! 私の蘭ちゃんがあんな小娘を"オレの"……だなんて羨ましい……ううん。憎たらしいっ!)

 またも会話を盗み聞きしては怒りを募らせるトキコだったが、実は今の会話の中に出てきた痴漢のことを、彼女はとっくに知っていた。
 何故なら――トキコはが痴漢を受ける瞬間。つまり痴漢野郎の犯行をリアルタイムで目撃していたからだ。
 
 トキコの住んでいるマンションは梵天事務所の近くにある。しかも偶然、とは家の方向が同じで、帰るコースも同じ。は気づいてなかったものの、トキコはこれまでも何度か彼女を見かけたことがあった。だが、当然憎きライバルである小娘に自ら声をかけることはせず、遭遇しても物陰に隠れてやり過ごしていた。
 そんなわけで、の方は全くと言っていいほど、トキコがご近所に住んでいる、という事実に気づいていない。

 そしてが痴漢をされた、あの夜。実はトキコも混雑しているコンビニで買い物をしていた。そこへ派手な格好をしたが来店。内心「げ……」と焦ったトキコは商品棚の陰に隠れつつ、彼女をやり過ごした。
 は酔っているのか、足元をフラつかせながら熱心にスイーツを眺めている。そのまま食べたいものをカゴへ入れ、ついでに酒やツマミなどを買って、はコンビニを出て行った。
 それを見送ったトキコは、アイツに見つからなくて良かった……と、ホっとしつつレジに並んでいた。そのトキコの前に並んでいた客が、皮肉にも例の痴漢野郎だったのだ。
 トキコが買ったのは夕飯用の弁当のみ。温めは断ったので、痴漢野郎がコンビニを出たすぐ後に、トキコもコンビニを出ることになった。その際目撃したのは、目の前をやたらと足早に歩く、ベージュのジャケットを着た男。男は不自然なほど早歩きをしていて、まるで誰かを追いかけるよう、トキコの前を歩いている。それが少しだけ気になったのは女の勘としか言いようがない。何気なく確認した前方にはの姿しか見えなかったというのも、何となく気になった。
 一瞬、二人は知り合いで、男の方が声をかけようとしているのかとも考えたが、明らかにそんな空気でもない。そこで何となくトキコも男と同じように足を速めて歩きだした。
 ――その直後だった。男がを追い越した際、彼女の胸を揉んだように見えた。

(な……何今の! まさかアイツ……痴漢?!)

 は相当驚いたのか、硬直したように動かない。その隙に男は逃げ去り、我に返った彼女が「あんの野郎~!」と怒っているのがトキコにも見えた。痴漢男に対し、自分が何も出来なかったことも悔しかったようだ。は何やらブツブツと文句を言いながら、トキコのはるか前を歩いて行く。
 まあ、この時点では内心「ざまーみろ」くらいにしか思わなかった。いかにも男の目につきそうな服装をしていたにも非がある、と。
 だが、しかし。自宅につき、先ほどの光景を思い出すと、ザマーミロだなんて申し訳なかったかも、と思い始めた。
 確かに、は愛しい蘭を独り占めするような悪い女だ。(!)
 だけども、同じ女としてトキコも痴漢に合う恐怖や屈辱は嫌というほど知っている。これでも若かりし頃は男好きのする美貌とスタイルを維持していたトキコ。当然ながら、多くの痴漢や変質者と呼ばれる男どもに遭遇してきた。

 電車内でお尻を撫でまわし、硬くなったアレを腰に押し付けてくる変態ジジイ。(当然、その場で手首を捻り上げて股間を蹴飛ばしてやった)
 ある時はトキコの背後に立ち、首筋に息を吐きかけてくるサラリーマン。何故かマジシャン風の白い手袋をしていたキモすぎる男。(殺気増し増しで睨みつけたら、そそくさと逃げて他の女性客にターゲットを変えやがった)
 あとカメラを持ったままの手を下げ、トキコの足を盗撮してきたオタク風のメガネ野郎もいた。(は? 何撮ってんだよとドスの効いた声で文句を言ったら、男は慌てて電車を降りやがった)
 そしてある時は、夜道を歩いていたトキコの横を、自分のモノを出してしごきながら自転車で追い越して行った大学生風のクソガキ。(待てこら! と怒鳴って追いかけたらオリンピック選手並みにチャリをこいで逃げやがった)
 
 と、まあ。まだまだ他にも沢山の変態に遭遇しているトキコは、今思い出しても腹が立つ、と拳を強く握りしめた。ああいうクズどもは、捕まえて半殺しのあげく、アレをちょん切って一生、気持ちいいことが出来ない体にしてやりたい、とトキコは思う。そもそも人様の体を許可なく勝手に触る頭のおかしい連中なのだから、何をされても文句は言えないはずだ。
 ……なんて本気で考えるほど、自らが数多くの被害にあった経験があるトキコだからこそ、が味わった恐怖や怒りが死ぬほど理解出来てしまうのだ。

(ムカつく小娘だけど……やっぱり痴漢野郎は許せん! 顔はバッチリ見てるし……今度アイツを見つけたらタダじゃおかない)

 そう心に誓ったトキコも、痴漢男への燃え滾る怒りで全く睡魔が訪れず、同様、一睡もしないまま朝を迎えたのだった。
 そして痴漢騒ぎから一週間が経ったこの夜も、帰路についていたトキコはがフラつく足取りでコンビニへ入っていくのを見かけた。仕事のあと。トキコは昔のヤンキー仲間と焼き鳥屋で酒を引っ掻けた帰りだった。
 は懲りもせず酔ってるようで、また部下の一人も連れていない。あげく歩いて帰宅しようとしている。そこでトキコはコンビニ前で待ち伏せをして、買い物を終えて出てきたから距離を取りつつ、こっそり尾行を始めた。護衛、というつもりはなかったが、また彼女を狙って痴漢が襲ってくるかもしれないと考えたのだ。

(ったく……何でこの私が愛しい蘭さんを誑かしてる小娘を心配しなきゃならないわけ?)
 
 内心そう思いつつも、放って帰宅する、という選択肢はなかった。愛しい気持ちは別として、お世話になっている蘭の部下を、むざむざ危険な目に合わせると言うのは、トキコの中の義理人情が許さなかったせいだ。
 そしてのマンションまであともう少しというところ。不意に脇道からスっと男が現れた。その男は一週間前、の胸を揉んで逃げた痴漢でまず間違いない。あの夜と同じくベージュのジャケットを羽織っている。
 男はちょうどとトキコの間を歩き始めた。あのタイミングの良さは彼女を待ち伏せしていたように、トキコの目には映った。
 もしや……触るだけじゃ飽き足らず、彼女を襲おうとしているのでは……。
 直感的にそう感じたトキコは、男にバレないよう静かに後ろからついて行く。
 そして、もうすぐのマンションに着く、という時だった。男が少しずつ足を速めて行き、彼女の背後へ近づく。男は明らかに後ろから抱き着こうとしていた。
 それに気づいた時、トキコは自分の年齢を忘れ、若い頃のように思い切り走りだしていた。

「危ない!!」

 咄嗟に叫んだことで、まず男がギョっとして振り返る。その時点で、トキコは男の目前まで迫っていた。つかさず驚きで固まっている男の腕を徐に掴むと、トキコは走ってきた勢いのまま男を――背負い投げをした。

「うぉりゃぁぁぁっ!!」

 女の中じゃケンカは誰にも負けない。かつてレディースの間で"無敵のトキコ"と呼ばれたプライドが、彼女に男を投げさせた。渾身の一撃だった。

「へ……?」

 たった今、襲われかけただけは、何が起きたのかも分からずに唖然と立ち尽くしている。そこでトキコはハッと我に返った。
 しまった。私だとバレてしまった――!
 思わずトキコがその場から逃げようとしたその時。背後から誰かが走って来るような足音がした。

! 何があったんだよ……!」
「ら……蘭さんっ?」

(きゃぁっぁぁ! らららら、蘭ちゃん!)

 心の中で叫ぶトキコには目もくれず。蘭はをぎゅうぎゅうと抱きしめている。その光景を見てイライラ度数がマックスになったトキコは、再びへの殺意が止まらない。
 だがしかし。蘭がトキコの存在に気づき、振り向いた瞬間。トキコは掴んでいた男の腕をパっと放し、当然のように頬を紅色に染めた。愛しい男の視界に自分が入っている。それだけで心臓がどっきゅんばっきゅんと激しくなり、いつ心停止をしてもおかしくないほど、高鳴っている。
 そんな事実を、蘭だけが気づいてない。トキコを見て本気で驚いていた。

「は? トキコ……何でオマエがここにいんだよ」
「ら……蘭さん……♡」

 愛しい男に名を呼ばれ、乙女のような声を出したトキコ。それに気づいたが密かに絶句している。
 だが、ふと我に返ると「トキコさんが助けてくれたんだと思う」と蘭に進言してくれた。

「え、これトキコがやったのか。オマエ、すげーじゃん」

 道端ですっかり伸びている痴漢男を見下ろし、蘭が更に目を丸くする。
 
「い、いえそんな……昔取った杵柄きねづかってやつですぅ……♡」

 思いがけず蘭に褒められ、トキコは本能のままに腰をくねくねさせた。蘭の前では女子オーラが駄々洩れしてしまうのだ。なのにトキコの恋心は、蘭に全く伝わらない。

「チッ……コイツか。例の痴漢って……オレののオッパイ揉んだとか許せねえ……オレでさえ揉んだことねえのに」
「……はい?」

(そんな! 私の胸はいつでも揉んでいいのよ?!)

 論点が大幅にズレているトキコの願望は止まらない。年齢差などすっかり忘れて、誘うように蘭を見つめる。
 だが、その時だった。何故か蘭の方からトキコの方へ近づいて来て、「え」と思った時には蘭の綺麗な顔が目の前にあった。

「トキコ、のこと助けてくれてさんきゅーな。マジで助かったわ」
「え、い、いえ……そんな――ぎゃふう……!!」

 モジモジと少女のような照れっぷりを見せていたトキコ。しかし何を思ったのか。蘭がガバリと抱き着いてきた。その瞬間、トキコのラブリミッターは完全崩壊。自分でさえ、どこから出たんだと首を捻るほどの獣臭漂う雄たけびを上げ――心身ともに絶頂の最中、くてん、と見事に失神。あの時はまるで最高のオーガズムを味わったような心地だった、とは、のちのトキコ談である。
 
 その後。無事に意識を取り戻したトキコは、しっかり事務所の仮眠室で寝かされていた。(もちろん蘭が運んだ、わけではなく。自分の部下を呼んで二人がかりで運ばせたのだが、トキコだけは「蘭ちゃんが私をお姫様抱っこで運んでくれた♡」と信じ込んでいるそうな)

「え、私、どうして……」
 
 意識を取り戻したはいいが、何故こんなところに? と、あれこれ考えを巡らせていたトキコ。ふと見ればテーブルには何故か高級ユンケルと"お疲れさん"という手書きのメモが置かれている。この字は間違いなく蘭が書いたもの。そこはトキコにも分かった。

「や、やだ……蘭ちゃんたら……これ飲んで夜這いでもしろってことかしら♡」

 今日も今日とて、トキコの妄想が止まらない。
 そしてこの日の夜。から「助けてもらったお礼をさせて」と呼び出され、しっかり焼肉を奢ってもらったのは、また別の話。


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