棚引く雲と澄み切った爽やかな青空の下。陽の光を浴びながら、弾けるみんなの笑顔を見るのが好きだった。
あの頃のことを思い出すと、今も少しだけ泣きそうになる。
映るもの全てがキラキラして見えてたはずなのに、今の私の目に映るのは絵の具がとっくに干からびた油絵や、変色したキャンバスみたいにくすんだ色をした世界だ。

本社を出て空を仰ぎ見れば、梅雨の始まりを滲ませる湿った空気が充満していた。
帰るまでに降らないで欲しいと思いながら駅までの道のりを急ぐ。
だけど地下鉄の改札口まであともう少しといったところで、ポツリと雨粒が頬に落ちた。軽快に鳴っていたヒールの音が止まる。一瞬だけ過去の光景と重なった気がしたからだ。

――

私を呼ぶ、懐かしい声が蘇る。君の眩しい笑顔さえも。
あの頃の私と彼は、確かに同じ時間の中で生きていた。ちぐはぐで曖昧に関わりながらも、互いに心を手繰り寄せては引き剥がすような、まだ未熟で未完成な青。
その未熟さが愛おしく感じるくらい、君との時間は何より大切だった……はずなのに。






「――!」

聞き慣れた声に呼ばれて振り返ると、何かが弧を描いて飛んできた。それをキャッチしようと腕を伸ばしたら、抱えていた呪具が地面へ落ちてカランカラン、という甲高い音が鳴る。

「冷た!」

陽の光を浴びながら飛んできたものをキャッチした瞬間、細かな水しぶきが頬にかかって、その冷たさに声を上げる。
手の中のものを見れば、それは私の好きなアイスの実。放り投げた張本人が自転車の後ろに乗って颯爽と目の前に現れた。こいでいるのは夏油くんだ。

「五条くん、夏油くん!二人ともどこ行って――」
「それ買いに行ってた。やるよ」
「え、訓練終わった途端、姿消したと思ったら二人してコンビニ行ってたの?呪具の片づけを私一人に押し付けて?」
「私は片付けてから行こうと言ったんだけどね」

自転車をこいできた夏油くんが苦笑いを零す。どうやら言い出しっぺは五条くんらしい。

「は?傑、オマエ自分だけいい子ちゃんになろうとしてる?」

自転車の前に座る夏油くんの背中を、後ろに跨っていた五条くんが殴る。そこからギャーギャーと子供のケンカみたいな言い合いになるのはいつものことだけど、せっかくのアイスが溶けちゃうから「頂きます」と言って早速アイスの袋を開けた。

「んー!冷たくて美味しい!訓練後のアイスの実サイコー」
「仕事あとのビールはサイコーとか言ってるオヤジと同類だな、それ。ってかひとりで食うなよ」
「え、私にくれたんでしょ?」
「俺にもちょーだい」

あーんと口を開ける五条くんは無邪気な子供と同じだ。仕方ないなあと言いつつ、アイスの実を一粒、彼の口へ運ぶ。それだけで満足そうな笑顔を見せる五条くんは、餌を詰め込んだハムスターばりに頬をぷっくりさせながら、「冷てぇ」と連呼してアイスの実を口の中で溶かし始めた。

「悟、私は自転車を返してくるよ」
「おー。見つからないようになー」

五条くんが自転車から下りると夏油くんは片手を上げてのんびり自転車をこいで行く。そのやり取りで全てが分かってしまった。

「また勝手に借りたんだ」
「いいだろ。余ってんだし」
「夜蛾っちにまたゲンコツ喰らうよー?」
「術式で交わすから余裕」

言いながら笑顔でピースをする五条くんを見て、つい苦笑が洩れた。こんなことを言ってても、実際はちゃんと術式をオフにして先生のゲンコツを受けること、私は知っている。
口も態度も悪いけど、その言葉の棘の裏に密かな優しさを隠してることも。

「花火も買って来たから硝子も誘って夜みんなでやんねぇ?」
「え、やりたい!」

五条くんが持ってた袋の中を見れば、カラフルな花火セットが沢山入ってる。何で花火っていうだけでテンションが上がるのか不思議だけど、夏と言えば花火にアイスと相場は決まっている。
五条くんの持つコンビニ袋の中には、夏がいっぱい詰まっていた。その袋を私の手に押し付けた五条くんは、落ちたままの呪具を拾い集めて「これしまってくるわ」と禁庫の方へ歩き出す。
サボったかと思えば、こんな風にきちんと手伝ってくれるところも私は好きだった。

「私も行く」

半分持つよ、と手を差し出したら、五条くんは一番軽い小刀を差し出した。さり気ない優しさが見え隠れする。
彼のこのギャップは狙ってるのか天然のものなのか、よく分からないけど、それに引っかかってる単純な女が私だ。

「このあとって座学だっけー」
「うん」
「俺、寝ちゃいそう」
「ダメー。連帯責任になって硝子にまた怒られるよ」
「チッ。昼寝くらいさせろっつーの」
「座学は昼寝タイムじゃないから」

笑いながら突っ込むと、五条くんは拗ねたように唇を尖らせた。
ひとたび戦闘になればベテラン術師も真っ青なほどの強さを見せるくせに、こういう時はどこまでも悪ガキみたいで可愛い。硝子に言ったら「は?可愛くないでしょ、全然。視力検査してあげようか?」と真顔で返されてしまった。

「アイス、もう一個ちょーだい」
「もう、自分の分はどうしたの」
「俺のは夜に食べんだよ」
「うわ、こすい」
「うっせー」

他愛もないやり取りが楽しくて、こんな日々がこれから先もずっと続くと根拠もなく信じていられたのは、みんながいてくれたから。
だけど、私たちは呪術師だ。平穏な日常を壊すような、恐ろしい現実が突然襲ってくることもある。

非戦闘員の硝子とは違い、私は術師として五条くんや夏油くんと一緒に任務へ出ていた。
ある日、呪いが多発すると言う廃墟での任務中。三人ばらばらで呪霊の捜索をしていたら、突如として手強い呪霊と遭遇した。
どうにか術式を駆使してダメージを与えたものの、ほぼ同時に放たれた最後の攻撃を交わす余裕がなく、もろに直撃。私は初めて自分の死を覚悟した。

「――おい!目を開けろって!」
「私は硝子を呼んで来る!」

朦朧とする意識の中で五条くんの必死な声や、夏油くんの慌てた声が聞こえてくる。ああ、これが走馬灯か、なんてぼんやり考えてたら、突然頬に痛みが走った。

「おい、起きろ!」
「い、痛……」
「おい、――!」
「ぃいい痛いってば……!」

五条くんが無遠慮にびたびたとビンタをしてくるせいで、私は三途の川を渡る前に現実へと引き戻された、らしい。ぱちっと目を開けたら、五条くんが見たこともないくらい情けない顔で「よ、良かった……」なんて呟くから、思わず笑ってしまった。

「血まみれで笑ってんじゃねえ。怖ぇわ」
「だ、だって……いたた……五条くん見たことない顔してるんだもん……顔、青いよ」

意識もはっきりしてきた頃、私は五条くんの腕に抱かれてるんだと気づいた。恥ずかしくて逃げ出したいのに、思った以上の大怪我だったようで動くことさえ出来ない。だから五条くんに抱かれてジっとしてるしかなかった。

「……り前だろ」
「え……?」

私を抱く五条くんの腕に僅かながら力が入った。地味に痛い。

「当たり前だって言ったんだよ。好きな女が死にかけたんだから青くもなるっつーの」
「……いたっ」
「げ、わ、悪い」

五条くんの手が私の肩をぐっと力強く抱くから今度こそ激痛が走った。おかげで今言われた言葉がスッキリとした脳にまで届く。恐る恐る視線だけ上げると、五条くんはそっぽを向いて「傑のヤツ、まだかよ」とブツブツ言ってたけど、頬はほんのりと赤い。

「え、五条、くん……今、何て……?」
「あ?」

照れ隠しなのか、怖い顔で見下ろしてきた五条くんは「聞いてなかったのかよ……」と不貞腐れた声を出す。その言葉で、ああ幻聴じゃなかったんだ、とホッとした。

「き、聞こえてた……けど……じょ、冗談とか」
「は?んなわけあるかよ……こんな時に。――マジなやつだから」

いつもは素直じゃないくせに、こんな時にだけズルい。こっちは怪我をして身体中痛いって言うのに。こんな血まみれの時じゃなく、もっとちゃんと普通の状態の時に言ってよ。
嬉しいクセに、そんな文句ばかりが口から零れ落ちる。言うつもりじゃなかった想いはすでに駄々洩れで、私の密かなる想いは五条くんにも伝わったみたいだ。

「え、ってか……オマエも俺のこと……好き、とか?」
「……う。す、好き……かも」
「かもぉ?」
「す、好きだよ!でも今じゃない感!何でこんなボロボロの時に言うのー?」
「あーもう……うるせー」

私がキャンキャンわめけば五条くんがボソリと呟く。え、と思って視線を上げると、綺麗な顔が急に近づいてきて――。

「んぐ……っ」

柔らかいものが唇を塞いで、それからちゅっと音を立てて啄まれた。おかげで涙も文句も引っ込む。

「ふはっオマエ、ハニワ顏になってんじゃん。もう少し色気のある表情できねえのかよ」
「な……にして――」
「何ってキスだろ」

わなわなする私を鼻で笑いながら、五条くんはシレっと答えた。だから……何でいま?

「あ、ハニワが真っ赤になった」
「だ、だから何で今するわけ……」

中学に上がって彼氏彼女という概念を持ち始めた頃。憧れて想像した私のファーストキスの夢が、脆くも崩れ去っていく。初めてのキスが血の味ってどういうこと?!
誰が言い出したのかは知らないけど、"ファーストキスはレモン味"……なんて、もちろんそんなのは信じてなかった。だけど、もっとこんな瓦礫と埃まみれの場所じゃなく、海を眺めながら夜の浜辺とか、星がいっぱい見える夜空の下とか、もっとそういうムードのある場所でするのが夢だったのに台なし感が凄い。そもそもケガで動けないのをいいことに、勝手に唇を奪うなんてひどい。
動揺してアレコレ文句を言ったところで、五条くんには暖簾に腕押しらしい。

「そんなにキャンキャン吠えるってことは、もっかいして欲しいってこと?」
「ち、違うっ」
「かーわい。照れてやんの」
「か、かわ……っ?」

そんなの初めて言われた。嬉しさと照れ臭さで動揺してしまう。五条くんは笑いながら私の頭を撫でて、そしてまた軽く唇を重ねてきた。今の私は煤けてるし、血まみれだし、髪もメイクもぐちゃぐちゃで最高にブスのはずなのに、キスをしたあとは「無事でよかった……」なんて真顔で言うから、文句も引っ込んで何だか泣けてきた。
嬉しくて恥ずかしくて傷が痛くて、とにかくもう情緒がめちゃくちゃだ。

が好きだ」

あの瞬間が幸せだった。二人の関係はこれからも幸せな青を描いていくんだと、信じて疑わなかった。
でも人生、そう甘くはないんだと思い知らされたのは、翌年の夏の終わり。

「五条さんと付き合い始めたんですか?お似合いです!」

彼らしい明るい笑顔を浮かべてそう言ってくれた後輩は殉職して、その悲しみも癒えないうちに夏油くんまでがいなくなった。少しずつ大切な人が欠けていく絶望で心が折れてしまったのは私が弱いからだ。
秋雨の降る頃にはもう、私に戦う気力は少しも残っていなかった。

ある休日の夕方。新宿の街を歩いていたら曇天からポツリと雨が落ちてきた。足を速めて駅へと急ぎながらも、視線は消えた同級生を探す。
この街へ来れば会えるかも、と思ったけど、どうやら空振りのようだ。
そう思いながら改札口へ駆け込むと、不意に「!」と呼ばれた。後ろから走って来たのは五条くんだ。

「やっと会えた」

肩の水滴を手で払いながら五条くんは言った。彼は今日、地方で任務のはずなのに何でここにいるんだろう。

「どうして……」
「ここにいるんじゃないかって硝子に聞いたんだよ」

傑を探してたんだろ?と五条くんは何もかも分かったように言った。
だって、どうしても信じられないから、本人の口からきちんと理由を聞きたかったのだ。
硝子や五条くんが聞いたみたいに。私だけが、夏油くんに会えなかったから――。

「……ごめんね」
「あ?何で謝んだよ」
「ごめん」

無性に謝りたくなったのは、もう五条くんの隣にいることさえ辛いと思ってしまったからだ。
好きな想いは変わらないのに、去年とは何もかもが違いすぎて。
目に映るもの全ての色が一瞬で消えてしまったみたいに、心の中の色彩がポロポロと剥げ落ちていく。
もう前のように善を信じて呪術師を続けていける自信がなくなったのは、硝子から聞いた夏油くんの思いを知ったからかもしれない。彼の憤りに僅かでも共感してしまった私は、この世界にいてはいけない人間だ。
この世界が何より残酷だっていうことを忘れていた。私は愚かでダメな人間だ。呪術師を名乗る資格もない。

――何だよ、それ。

私を探しに来た五条くんにそんな心の内を打ち明けたら、ごっそり表情が抜け落ちた顔で呟いた。
そこからは言い合いに発展して、雨が降る中、互いに酷い言葉をぶつけ合った気がする。

――傑の件と俺たちのことは関係ないだろ!
――関係なくても気持ちがついていかないの……私は五条くんみたいに強くない!

我ながら酷いことを言ったと思う。五条くんだってツラい思いをしてたのに、そんなの一番分かっていたはずなのに。
結局仲直りをすることもないまま。私は呪術師をやめた。
高専を去る日、五条くんは地方に出張でいなかったから、最後まで顔を合わせることもなく。
私は五条くんがバカにしてた非術師の世界の住人となった。

そこから必死で勉強し直して、一年遅れで大学に入り、卒業後は今の会社へ就職した。某大手の化粧品会社だ。
私も若い頃から基礎化粧品全般、あとはリップやハンドクリームなども愛用してたから、その商品の開発に携わることが出来た時はちょっとだけ感動してしまった。特にハンドクリームはバッグに必ず入れているし、今日は本社で会議があったから、来月発売予定の新作の試供品をいくつかもらってきたところだ。
今回は塗ったあとのサラサラ感と香りは特に拘って作ったから過去一気に入ってたりする。
ふと思い出して手の中にある紙袋を見る。箱のデザインもデザイナーさんと何度も話し合いながら決めただけあって、見てるだけでも可愛いなと思う。
箱の中の一つを手に取ると、一瞬懐かしい光景が蘇った。

――~ハンドクリーム貸してー。

あの頃は冬になると、よく五条くんも私のハンドクリーム目当てに声をかけてきた。適量を知らないから大量に出しては「余ったの塗ってやるから手ぇ出せ」なんて言って私の手にクリームを塗ってくれたっけ。
あの時はまだ付き合う前だから、やけにドキドキしてたのを思い出す。
この歳になって思えば、私もちゃんと青春してたんだなぁ、なんて思い出して感慨にふけってしまった。同時に、その幸せな時間を私が壊したんだという罪悪感も。

(そっか……この場所……あの時の……)

弱々しい雨粒が落ちてくる曇天と、改札口。ここは最初に五条くんと言い合いをした場所だ。あの時はお互いに譲らなくて、弱ってた心がアレをキッカケに完全に折れてしまったことまで思い出す。
あの時、私は逃げることでしか自分を守ることが出来なかった。
そんな私に五条くんも愛想を尽かしたんだろう。高専を離脱後、一度も連絡が来なかったのがいい証拠だ。
自分から逃げだしたクセに、連絡してくれないことにも傷ついてた。本当に最低だ。

「あー本降りになってきたな……帰らなきゃ」

足早に改札口から階段を下りていく人達を見て、私もそれに続こうと振り返る。だけど階段を一段下りたところで、小さく息を呑んだのは、反対側の歩道に見覚えのあるシルエットを見た気がしたからだ。
すぐに階段を上がって車線の向こう側を確認すると、モノクロの世界に一つだけ色鮮やかな"青"を見つけた。その煌く光が、真っすぐに私へ向けられている。

「……五条、くん」

その名を口にするのは、約10年ぶりだったかもしれない。






「あれ、どしたの、センセー」

雨が降り出したから先を急いでたはずなのに、指で軽くアイマスクを持ち上げて急に立ち止まった僕に気づき、悠仁も足を止める。同時に野薔薇や恵も「濡れちゃうのに何してんの」なんて文句を言いながら戻って来る。でも僕はそれを耳に入れながらも応えることが出来なかった。
道路の向こう側に、僕の青い春を象徴する人物がいたせいだ。

「あの人、先生の知り合い?」

悠仁だけは文句も言わず、そんな質問をしてくる。つい「ああ、昔の」とだけ答えていた。
幻かとも思ったけど違う。向こうも驚いた顔で僕を見ている。やっぱり見間違いじゃない。

「ちょっと五条先生~!本降りになる前にサッサと行くわよ!伊地知さんも待ってるってば!」

もう少し行った先で伊地知が待機しているのは知ってる。なのに足が地面にくっついたみたいに動かない。
呪術実習の帰り。まさかこんな唐突に過去が現れるとは思わなかった。

「……五条先生ってば!」

雨脚が強まり出したことで野薔薇が僕の腕を引っ張った。でもそれを止めたのは悠仁だ。

「釘崎。俺たちだけ先に行ってようぜ」
「ハア?何でよ」
「五条先生、ちょっと用が出来たみたいでさ」

言いながら野薔薇の背中をグイグイ押しながら、悠仁は驚く僕の方へ振り向いた。

「あの人と話したいんだろ?そんな顔してる」
「……悠仁?」
「俺ら先に帰ってっから」

何かを察したらしい悠仁はニカッといつもの明るい笑みを浮かべた。そして最後に「事情は全く知らねえけど」と前置きをして、ふと真面目な顔で僕を見上げる。

「この機会逃したらもうダメってこともあるから、会えた時にちゃんと話した方がいいよ。後悔するから」

何も知らないはずなのに、的を得たようなことを言う悠仁は最近祖父を亡くしたばかりだ。きっとそういう自分の感傷もあって何かを感じ取ったのかもしれない。生徒に諭された現実に思わず苦笑が洩れてしまった。

「ちょっと何の話~?ってか本降りになってきたんですけど!」
「おら、釘崎走るぞ!」
「え、ちょっと待ちなさいよ、虎杖!」

言いたいことだけ言った悠仁は、笑顔で手を振りながら走って行く。可愛い教え子のアドバイスに感謝しつつ、意識だけは彼女の方へ向いたまま。
彼女――はまだ同じ場所に立っていた。
曇天の下、モノクロの世界が動く中で、彼女だけが鮮やかに色づいて見える。まるであの日の続きかと錯覚するくらい、今の僕たちに10年の空白はないものに感じた。

「久しぶり」

軽く車道を飛び越えて彼女の前へ立つ。はまだ夢を見てるような顔で僕を見上げて来た。一瞬、過去が走馬灯のように僕の脳裏を過ぎっていく。あの頃の彼女と、目の前のが綺麗に重なった。
どんなに大人びていようと、メイクをしていようと。僕の中のはあの頃と何も変わらない。

「ほん、もの……?」
「あいにく。まだ生きてる」

指でするりとアイマスクを下ろせば、はやっと「ほんとに……五条くんだ」と呟いた。相変わらず驚いた時の反応は可愛い。

「……濡れるから移動しよっか」
「え……?あ……」

有無も言わさず彼女の手を掴み、雨の中を走りだす。そう言えば昔もこんな風に雨の中を走った気がする。それくらいありふれた日常を、僕はと過ごして来た。
そのまま術式で雨を避けながら、彼女を連れて近くのホテルのラウンジへ駆け込む。その数秒後には雨が土砂降りへと変わっていた。

「何か……変な感じ」
「ん?」
「雨に降られても濡れない感覚……昔もそう感じたのを思い出した」

ラウンジ内、窓際の席へ案内されて座った途端、ぽつりと彼女が呟く。僕もきっと同じことを考えてた。雨の中、と手を繋いで走ったこと。寮を抜け出して真夜中のコンビニへ一緒に行ったこと。帰り道、繋いでいた手を引き寄せてキスをしたことまでハッキリと。
急に降り出した雨のせいか、普段は人がまばらなラウンジは雨宿り目的のサラリーマンが次々にやって来る。途中で見かけたカフェも似たようなものだったけど、若者がごちゃつくカフェよりは、結果的にこっちを選んで良かったと思う。席の間には目隠しになる仕切りガラスもあるから、落ち着いて話すにはもってこいの場所だ。

「ご注文はお決まりでしょうか」

注文を聞きにきたウエイターにコーヒーとレモンティーを注文したあと、ふと彼女を見る。つい昔みたいに彼女が好きだったものを注文してしまったけれど、今もそれでいいんだろうか。
は何も言わずに、でも少しだけ驚いた顔をしていた。

「覚えててくれたんだ」
「そりゃ覚えてるよ……でもそれで良かった?」
「うん」

はどこか照れ臭そうに目を伏せると、小さく頷いてくれた。

「まさか会えるとは思わなかった」

飲みものが運ばれて来た頃。がふと呟いた。それは僕の台詞だと返せば、彼女は「僕……?」とかすかに笑う。

「五条くん変わったね。何か……大人になった」
「当たり前でしょ。あれから何年経ったと思ってるの」
「……10年……くらい?何か……そんなに経った気はしないのに」

最後は独り言のように言いながら、は遠い目をして窓の外を見た。大人になったというなら彼女も同じだ。少し大人びた横顔は、僕の知らない10年間を伝えてくる。無意識に彼女の左手薬指を確認してしまったのは、もしかしたらすでに誰かと、という想像をしてしまったせいだ。でもそこに光る指輪はない。愚かにもホっとしたのは、悠仁にも見透かされたように僕が今も過去を引きずってるからだ。
あの時、彼女に何もしてあげられなかったこと。自分の気持ちを押し付けてしまったこと。彼女の痛みに気づいてやれなかったこと。全てが後悔となって心のどこかに絡みついたまま。
今更だけど、大人になった今だからこそ、あの時のことを謝りたい。ずっとそう思ってた。

……あの時は――」
「ごめんね、五条くん」

なのに、先にその言葉を口にしたのはの方だった。

「あの時は心の余裕もなくて酷いこといっぱい言った……あげく一人で逃げた。五条くんからも、呪術界からも」

ふと僕を見た彼女の瞳からぽろりと涙が零れ落ちる。ずっと謝りたかった、とは言った。

「傷つけてごめん……」
「謝るなよ。それ僕の方だから」
「そんなこと――」
「あるよ。僕だって傷ついてるに酷いこと言っただろ。誰だって身近な人間の死や離反はキツい。なのに僕はのそんな心を守ろうとしないで自分の気持ちを優先させてオマエを引き留めようとした。最低だったと今も思う」
「五条くん……」
「フラれて当然だよ」

そう、当然だ。彼女が僕に何も言わずに高専を出て行ったのを知った時、遂に愛想を尽かされたと思った。硝子も「当たり前だ」と僕を責めた。「これ以上を引き留めるような真似はするなよ」と念を押された。だから後ろ髪を引かれまくっていても、彼女のことを忘れる努力をしてこの10年間を過ごしてきた。
なのに、こうして再会して顔を見てしまえば、何一つ消化されてなかったんだと気づく。
初めて好きになった子だから、その想いはタイムカプセルみたいに僕の心の奥に埋められて、密かに息吹いてたようだ。
でもその想いを口にしようとした時。は「そんなの私の台詞だよ」と呟いた。

「呪術師としての覚悟が足りなかったから、きっと五条くんに愛想を尽かされたんだと思ってた。高専を出たあと一度も連絡こなかったから」
「それは……硝子に止められてたから。これ以上を引き留めるなって……今はそうされるのがツラいだろうからってさ」
「え、硝子に……?」
「でもそれ言うならも連絡くれなかったでしょ」
「だって……自分で呪術師やめたのに出来るわけないよ……」
「それも分かるけど、せめて別れの言葉くらいは電話して言ってくれても良かったんじゃない?何もないから宙ぶらりんのままで僕も未だに引きずってるわけだし――」
「え……?」

勢いのまま本音をぶちまけてしまったことで、が驚いたように顔を上げる。ここは隠しても仕方がないから「引きずってないって何で思うわけ」と捻くれた言い方で肯定した。

「五条……くん……?」

テーブルに置かれていた彼女の手をそっと握れば、指先がピクリと跳ねる。出来ることなら、も僕と同じ気持ちでいて欲しい。そんな願いを込めて「まだ好きだよ、のこと」と素直な言葉を紡いだ。

「10年もオマエのこと引きずってるって自分でもドン引きだけどね。事実だから仕方ない。出来ることなら……」

と言葉を切ってを見つめる。彼女は今もぽかんとした顔だ。相変わらず可愛いな。なんて思う時点で、やっぱり自分で自分に引く。

「今の連絡先とか教えて欲しいんですけど」
「え……本気……?」
「当然でしょ。本気じゃなきゃこんな恥ずかしいこと言えないし。これ以上、僕を拗らせたくないだろ?」
「……拗らせるって……」
「ここで断られたら毎日の職場に迎えに行くし、オマエのいる部署に電話もしちゃうかもしれないけどいーの?」

ダメ押しでふざけた脅しをすれば、の顔にやっと笑みが浮かんだ。昔と同じように、少し呆れた感じの笑顔が懐かしい。

「……私の職場、知らないくせに」
「あ、バレた?でも僕が本気で調べればすぐに分かるけど?」
「う……ズルい。五条家パワー使う気?」
「まあ今は僕が当主だし、その辺のネットワーク駆使すれば秒での全てが真っ裸にされるだろうね」

は最悪だの止めてよだの文句を言ってきたけど、その顏は怒ってるわけじゃない。元気だった頃の彼女が、そこにいた。

「ところで……さっき五条くんと一緒にいた子達、誰?高専の制服着てたけど」
「あ、話反らした」
「そ、そういうつもりは……」
「あいつらは僕の生徒だよ」
「えっ?」

高専を途中でやめたは当然、僕があの後、教師を目指したことは知らない。だから、さっき再会した時より驚いたらしい。

「あの五条くんが……教師……え、夜蛾先生は?」
「今や学長だよ」
「えー!どう見ても極道顔なのに学長?」
「ぷ……っ酷くない?それ」

まるで昔のノリでの会話になって、胸の奥から何とも言えない感傷がこみ上げてくる。情けないけど、何か泣きそう。

「あ、じゃあ生徒さんの中に女の子いたよね。ならこれ渡して」

は某大手化粧品会社の紙袋の中から可愛らしいケースに入ったハンドクリームを取り出した。

「これが愛用してたやつ?」
「よく覚えてるね」
「そりゃそうでしょ。好きな子の愛用品だし、僕もしょっちゅうそれダシにしてオマエに話しかけてたんだから」
「……」

今更ながらに暴露をすれば、彼女は分かりやすいくらい頬を赤らめた。いや、可愛すぎ。照れ隠しなのか軽く咳払いするとこは大人になったなぁとは思うけど。でも彼女は自分のミスにまだ気づいてないようだ。
ドジなところは昔のまま。

「こ、これ来月発売の新作の試供品で若い子ターゲットにしたから、さっきの子にもどうかなと――」
「へえ」
「な、何よ」

張り切って商品の説明を始めたは、自分が何を暴露したのか気づいてないらしい。ったく、そういうとこだよ。

「その言い方聞く限り、オマエの職場はここってわけだ」
「……あ」
「自分で暴露してちゃ世話ないよね。五条家パワー使うまでもなかったわ」
「……あ~私のバカ……つい、いつもの調子で営業しちゃった」

ふふん、と鼻で笑えば、は顔を真っ赤にして最後は深い溜息を吐いた。でもやっぱりその顏には笑顔がある。どこか吹っ切れたような、そんな顔だ。

「で……職場もバレたことだし、連絡先教えてくれる?」
「う……」

10年も会ってなかったなんて嘘みたいだと笑ってしまうくらい、何もかもが昔通りのやり取り。が陥落するのも、きっともうすぐだろう。






あの頃の懺悔を口にして謝罪したら、嘘みたいに心が軽くなった。お互いがお互いに愛想を尽かされたと思っていたのは驚いたけど、でも心の奥に燻っていた後悔の火種をきちんと鎮火できたのは良かったと思う。
まるで昔に戻ったみたいに話せてるのも、何か夢みたいだ。
だから、ほんとに冗談だと思った。あの五条くんが10年もの間、私とのことを引きずってたことも、今、言われた言葉も。

「まだ好きだよ、のこと」

こういうとこが本当にズルいと思う。再会して間もないのに唐突にそういうのぶっこんでくるとか、人を驚かせるところは昔とちっとも変ってない。あげく連絡先教えないなら職場に毎日くる?今じゃそれは立派なストーカーだから。
でも何を言ってもどこ吹く風で、五条くんは私の手を優しく握ってくる。
その体温を感じた瞬間、過去の懐かしい光景が一気に記憶の奥から噴き出て来た。まるでタイムカプセルを開けた時みたいに懐古するせいで、胸の奥が苦しくなる。
それは初めて五条くんのことを好きだと自覚した時の感覚に似ていた。

「で、オマエのカプセルには何が入ってた?」

素直に感じたことを教えると、どや顔で笑う。大人になってもそういうところは五条悟だなぁとおかしくなった。
だから応える代わりに彼の手をそっと握り返す。それだけで五条くんは満足そうに微笑んだ。
私たちは遠回りして、遠回りして、やっと在るべき場所へ辿り着いたんだと、今なら素直に思える。
握り返してくれた大きな手を愛おしく思った時。二人の中に存在していた未完成の青が、見事に重なり塗りつぶされていた。

ひとこと送る

メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで