17-獣は静かに牙を剥く

※モブ視点あり。
※流血描写あり。



 2005年、12月30日。大晦日を明日に控えて世間はどこも賑わっていた。それは新宿界隈も同じで、年内の仕事を終えたであろう父親たちが、それぞれ家族を連れて闊歩する光景があちらこちらに溢れている。その中に紛れている若者たちは酒に酔い、大きな声で騒ぐのも目立つ。今年も明日で終わりという年末の雰囲気は、人を容易く無防備にする。
 そんな雑踏を横目に、呪術師の男はある場所へと急いでいた。年末と言えど呪術師にとってはまあまあに忙しい時期。だがこの日は任務もなく、本来なら男は家族と過ごす予定だった。彼女から「会いたい」という呼び出しのメッセージが入るまでは。

 男が彼女と知り合ったのは一カ月前。彼の管轄である新宿某所にある空き家に低級呪霊が沸いているという報告があり、そこへ出向いた時のこと。隣に住んでいた二十代半ばほどの女が庭先へ出た際、空き家から溢れ出た呪霊に襲われ、男が助けるという形になった。低級といえど見たこともない化け物に襲われ、その女は酷く怯えていたのだが、男が宥めすかし、次第に彼女の気分も落ち着いた頃。女の方から自分を「救ってくれたお礼がしたい」と言い出した。男も一度は遠慮したのだが、彼女はこのままじゃ気が済まないと言う。
 女は若く、とても美しかった。お礼に夕飯でも、と熱心に誘われ、男の方も次第にまんざらでもなくなっていく。
 これだけ誘ってくるというのは、女の方にその気があるのかもしれない。そんな都合のいい方へ考えた男は、遂に小さな下心を腹に隠し、「夕飯をご馳走したい」という彼女の申し出を受け入れることになった。
 そして、男が都合よく考えていたことは、あながち間違ってもいなかった。結果として、このあと男と女は関係を持つことになる。
 二人が不適切な関係になったのは、夕飯をご馳走になったあとの別れ際、彼女の方から「もう一度会いたい」と言われたことがキッカケだ。男は三十代半ば。当然ながら妻子もいたが、若く美しい女性から誘われれば、それすら何の抑止力にもならない。当然のように連絡先を交換し、後日、女に呼ばれるまま再び家を尋ねると、その日のうちに男女の関係へと発展。それからは週に一度、逢瀬を重ねるようになった。
 
 その彼女から急な呼び出し。普段なら家族の手前もあり、休日に会うのは躊躇するところだが、年末という緩い空気が男をいつになく大胆にした。
 家族には急な任務が入ったと嘘をつき、いそいそと新宿まで出向いた男は、今から可愛い彼女を抱けるという欲ですでに気分も昂っていた。ここ最近は任務の方も忙しく、前回会った時から二週間以上も経っている。そろそろ欲求不満が限界を超える頃だった。
 妻とは三十歳を超えた辺りからセックスレスであり、男がその気になっても拒まれるので余計に悶々とした日々を過ごしていたこともある。そんな時に若く綺麗な女から誘われたので、そもそも男には最初から女を拒む理由などないに等しかった。
 今日はどんな風に抱いてやろうか、と考えながら、前回の行為に想いを馳せる。大人しそうな見た目のわりに、ベッドの中では驚くくらいに大胆であり、男の欲を存分に満たしてくれる女だった。最後に会った日もなかなか男を帰してくれず、最後の一滴まで搾り取られた気がする。
 肉体的な疲労は大変だったのだが、そこまで女に求められたこともなかった男にしたら、やたら雄としての本能がくすぐられたのを思い出す。
 ――そうそう、手錠を使ったプレイはなかなか良かったな。
 ふと思い出した途端、腰の辺りが疼くのを感じて、男は自嘲気味に口元を緩める。ああいう道具は女に使うものとばかり思っていたが、女から手錠をはめられ、逆に圧し掛かられた時は興奮しすぎて男の方が善がってしまったほどだ。
 出来れば、あれをもう一度経験したい。

 そんな欲を抱えつつ、新宿の繁華街を抜けて住宅街へと向かえば、何度となく通った彼女の家が見えてくる。大きな家が立ち並ぶその一角は、高級住宅街と呼ばれる地域。彼女も大きな屋敷に一人で住んでいた。聞けば海外に移り住んだ両親から実家を譲り受けたという。しかし大きな家での一人暮らしは寂しいようで、男が訊ねると彼女はいつも嬉しそうに出迎えてくれた。
 あれほど美しく、また性にも奔放なのになぜ恋人がいないのか。そんな小さな疑問はあれど、自分のような年上の男が好みなのだろうと安易に考え、あまり追及したこともなかった。不倫でなければ燃えないという性癖の女もこの世には存在する。現に彼女は男に甘えはするが、「奥さんと別れて」という面倒な言葉は一切言ってはこない。まさに浮気男の理想を形にしたような女だった。
 ただ今日のように急な呼び出しを今後もされるのは少々困る。万が一、彼女が本気で男に惚れたというならそれはそれで厄介だからだ。あんないい女を手放すのはもったいないが、そろそろ切るべきか? という身勝手なことを考えながら、男は彼女の家のインターフォンを鳴らした。

「あれ、おかしいな」

 いつもならすぐに応答するはずが、しばし待っても返事がない。インターフォンが聞こえない場所にでもいるんだろうか。何せこの家は無駄に広い。そんなことを考えながら、男がもう一度インターフォンを鳴らそうとした時。かちり、という解錠音が聞こえて、エントランスのドアが僅かに開くのが見えた。おかしいな、とは思ったものの、勝手に入れということかと思い、大きな門を抜けてエントランスへ向かう。しかしドアを開け、エントランスホールを覗いても普段なら出迎えてくれるはずの彼女がいない。

「おい、いるんだろ?」

 入るぞ、と言いながら靴を脱ぎ、いつものように用意されたスリッパを履いて、まずは廊下正面にあるリビングを覗いてみた。しかし、そこにも彼女の姿はない。

「どこだ? 二階にいるのか?」

 すぐに廊下を出て階段の下から声をかける。すると返事はないものの、上からパタン、というドアの閉まる音がかすかに聞こえた。
 ――何だ、やっぱりいるんじゃないか。
 男はホっとしつつ、すぐに女の思惑に気づいた。

「何だよ。今日はそういうプレイでもしたいのか?」

 どうせ彼女のことだ。これもセックスを盛り上げる為の前準備といったところだろう。なら乗ってやるさ。
 そんな思いのまま階段を上がり、彼女がいるであろう寝室のドアを静かに開ける。だがカーテンの閉め切られた薄暗い室内、男の目に飛び込んできたのは彼女ではなく。頑丈そうな縄で椅子に縛りつけられ、猿轡を口に嵌められた三人の男たちと、自分の妻。いや、男のうち一人は男の弟だった。

「は……?」

 想像すらしていなかった光景を目の当たりにした時、思考が遮断されて呆気にとられる。信じられないものを見た時の反応はこんなものなのかもしれない。
 椅子に縛り付けられている四人は全員が喉を搔っ切られ、上半身は真っ赤に染まっていた。その血液の量から全員が絶命しているのは明らか。最悪なことに弟以外の男たちも見覚えがあった。

「な、何だ、これは……どうしてオマエ達が彼女の家に……」

 そう独り言ちた時だった。背後にかすかな気配を感じ、全身が総毛だつ。重く、ねっとりと肌にまとわりつくようなそれは、男の魂をも削り取りそうなほどに禍々しいものだった。

「みーんな、私が招待してあげたの」

 聞き覚えのある声。でも初めて聞くような声色。本能で危険だと感じた男は、咄嗟に自身の術式を発動しようとした。しかし一秒の差で動かした右腕を物凄い力でへし折られる。ボキッという生々しい音と男の悲鳴が室内に響き渡った。

「オ、オマエ……何故……」

 痛みで思わず膝をつき、折られた腕を抑えながら後ろを仰ぎ見れば、想像通りの人物がさも楽しげな笑みを浮かべて立っていた。

オトネ・・・……何故オマエが俺の家族を――!」

 射干玉のような漆黒のまあるい黒目を持つ女を見上げれば、彼女は見たこともないような表情でゲラゲラと笑いだした。その姿は甘い言葉と声で男を誘ってきた儚げな女ではない。まるで呪いそのもの。
 何故、気づかなかったのか、と男が不思議に思うほど、目の前の女は普通じゃなかった。憎悪、悪意、殺意。そんなどす黒い呪いが交じり合う重苦しい呪力が全身から漏れ出している。
 
「理由なんて必要? これから死ぬのに。ねえ? 辰巳さん」
「な……何だと……? オマエは一体――」
「ああ、先に言っておくけど、オマエの嫁は勝手にここへ来たんだ。招待もしてないのにねえ? オマエと別れろと言いに来た。大人しく家にいれば死なずに済んだのに」
「……っ?」

 オトネの言葉に息を呑む。妻が彼女と自分の関係に気づいていたのだと、彼――辰巳は初めて知った。元々器用な方ではない。普段通りに振舞っているつもりでも、妻に勘づかれる程度には不自然な言動があったんだろう。その上でこんな年の暮れにいつもと違う行動をすれば、浮気相手と会うに違いないと踏んだからこそ、ここへやって来た。おおかた興信所か何かでこの場所はとっくに突きとめていたに違いない。
 そして不可解なのは三人の男たちだ。弟以外の男たちは全員が辰巳の従妹に当たる。その従妹までが何故オトネの家にいるのかさっぱり分からなかった。彼女が何故、彼らを手にかけたのかも。そして、自分を殺そうとしている理由も。
 いや、そもそも何故自分に近づいてきたのか――。

「貴様……まさか最初からこれが目的で……俺に近づいたのか!」

 辰巳の問いに、オトネはただ静かに微笑む。

「何とも簡単だったよ。オマエも、そこの奴らも。あっさり誘いに乗ってきた。男なんて所詮、その程度の下らない生き物よねえ?」
「な、何……じゃあ……彼らや弟ともオマエは……!」
「ふふ……セックスなんて下らない行為だと思ってたけど、意外と役立つもんだよねえ? 男なんてこの体を餌にすればいくらでも釣れるし、一族のことも寝物語に何でも教えてくれたよ。アンタも教えてくれたろ? 本家のこととかさ」
「……っ?」

 オトネに言われ、ハッと息を呑む。確かに呪術師のことを質問され、その話をする過程で一族のことも簡単に話した記憶はある。

「……我が一族に何の恨みが――」
「はは、恨みなんてないさ。まあ、個人的にはね。ただ……あの子が不憫でねぇ……こーんな下らない雄に喰われるのだけは阻止したかった」
「あの子……?」

 何のことだとオトネを見上げたのが男の最期だった。ぷつりと視界が真っ暗になり、意識は急激に萎んでいく。かすかに聞こえたのは「手始めにオマエらから消してあげる」という不気味な宣戦布告と、甲高い笑い声だった。





 2005年、大晦日。明日、年が明けたら高専二年となる日の朝。からの電話で起こされた。

 『"カノジョ"絡みかもしれない事件が起きた。もし任務がなければ来るか?』

 ちょうど大きな任務もないからと、実家に来ていた俺は、速攻で「行く」と伝えて実家を飛び出した。行き先は新宿の住宅街。と彼女付きの補助監督、如月さんが運転する車に途中で拾ってもらい、三人で現場へと向かう。

「大晦日で休暇中だったのに悪かった。五条くんも実家に帰省してたんだろう?」
「いいんだよ、別に。ちょっと顔見せに来いってうるさかったから夕べ帰っただけで、今夜にはもう高専に戻ろうと思ってたし」

 それは嘘じゃない。ここしばらくは全く顔を出してなかったせいか、正月を迎える前に一度戻って来いとしつこいくらいに母親から電話がかかってきてた。ただ、そうまでして俺を呼び寄せたのには他にも目的があったから、というのを見抜けなかったのは少し呑気だったかもしれない。と親しくなったことが実家に筒抜けとは考えもしなかったし、そのことで文句を言われるとも思ってなかった。
 まあ、散々警戒してきた人物というのは間違いないから、現当主の親父からすれば、息子が"憑きモノ筋"の彼女とデートを重ねてると知れば、文句の一つも言いたくなる気持ちは理解出来る。……スルーしたけど。
 はそこまで危険じゃないと説明して、少しは息子を信用しろと逆切れしたら渋々理解は示してくれたから、まあ大丈夫だろう。どっちにしろ俺が五条家のトップになれば、丸く収まることだ。
 
「それより……俺もってことは先輩も? 夕べ電話したのに出なかっただろ」
「……ああ、すまない。私も実家は久しぶりだった」

 彼女はそう言って窓の外へ視線を向けた。以前は一カ月に一度、本家である実家へ顔を出し、婚約者の男との時間をとらされていたらしいが、俺と親しくなった直後くらいには何故か行かなくなっていた。一度理由を尋ねたこともあったが、その時は「もう我慢するのはやめたんだ」ということだった。でも何故そう思うようになったのか、詳しい理由までは分からない。
 俺的には好きな子が親の決めた婚約者から人間以下の扱いを受けるのは我慢ならないし、それはそれでホっとしたけど、将来的には彼女がその男の子供を産まされるかもしれない……と考えるだけで胸糞悪くはなる。
 だから俺が五条家の当主になった時は、本気で家の悪しき習慣を途絶えさせることも考えていた。"憑きモノ筋"の一族が彼女の中の狗神、またはその強大な力だけを欲してるのは、彼女の過去を聞いて明らかだ。そんな下らないことの為に家の女性たちやが犠牲になる必要なんてない。

「うわ、ひでぇな、こりゃ」

 現場となった場所を見渡し、思わず顔をしかめて鼻をつまんだ。辺りは焦げた匂いが充満している。燃えたのは大きな屋敷だったらしいが、今は炭化して骨組みしか残っていない状態だ。

「これ、例の女がやったのかよ」
「分からない。ただ現場検証をした捜査官から連絡がきた。焼け跡から体の一部が亡くなっている遺体が数体見つかったと」
「ああ、例の特殊捜査課ね」

 この国を裏で牛耳っているのは呪術界総本部。当然、国家権力を振りかざす警察組織にも呪術界に明るい人間はいる。下っ端ではなく、もっと上の上辺りの奴らだ。そいつらと総本部の奴らで作ったとされる警視庁特殊捜査課は、俺たちが"窓"と呼ぶような連中で構成されている。と言ってもそいつらは視えるだけじゃなく、呪術師のように呪いを祓うことは出来ないが、特殊な訓練を受けているようで、ちょっとした呪術は扱えるということだった。
 特異な事件が起きた場合、まずそいつらが臨場して普通の事件か、呪い絡みかを見極める。まあ呪霊の場合はほぼ出張って来ないが、呪詛師絡みの事件だった場合は後方支援という立ち位置で、俺たちだけじゃ手の回らない聞き込みや裏どりなど、細かい捜査をしてくれる連中だ。そういう意味では助かる存在だが、今回の呪詛師の件も当然一枚嚙んでるらしい。
 ま、その組織を作った親とも言える総監部の一人が家族ごと惨殺されたんだから当たり前だろうな。

さん、こちらに例のご遺体が」

 屋敷が立っていた敷地の奥の方から如月さんが知らせてきて、は俺を一瞥した後、丸焦げの木材などを避けつつ、奥へと歩いて行く。俺もそれに続くと、確かに焼けた残骸の中に人型をした真っ黒いものが一塊になって交じっていた。

「げ……これ男女の区別もつかねえじゃん」

 遺体を見て気づいたが、焼死体を見るのは初めてだった。黒焦げ過ぎて、それが人間とは到底思えない。

「現場は二階の寝室、でしょうか。一階だとこの辺りはバスルームらしいですが、この数の人間をこの広さのバスルームで殺すというのはピンときませんし……」

 この家の間取りが載った紙面を指しながら如月さんがを見た。彼女も間取りを確認しつつ、「ああ、多分寝室が犯行現場だろうな」と頷く。
 
「この家の持ち主は?」
「税理士事務所の社長で田所信二さんという方です。妻の信子さんと二人暮らしだったようですが、お二人とは連絡がつかず、特殊捜査課の方が探したところ、先ほどその二人と思わしき遺体が屋敷の地下で発見されたとのことでして」

 言いながら如月さんが反対側の地面を指す。そこには大きな柱だったものが何本か避けた痕跡があり、その下に階段のようなものが見える。

「そちらのご遺体は体のどこにも欠損部分がなかったとのことで、先に彼らが運び出したそうです」
「そうか。でもあとで確認だけしておきたい」
「分かりました。彼らに伝えておきます」

 すぐに頷いた如月さんはどこかへ歩いて行く。それを見送りつつ、俺はもう一度遺体へ目を向けた。パっと見、何も見えないが、サングラスを外して六眼の解像度を上げることで、どうにか消えかかっている残穢を確認することが出来た。前の事件現場でも視た呪力と一致する。

「こうも焼け落ちてちゃいつものラクガキは確認できないだろうが、残穢だけ見れば同じ奴だ」
「……そうか。やはりな」

 も薄々は分かっていたのか、小さく息を吐いて遺体の方へと歩いて行く。折り重なるように倒れている遺体は全部で五体。家の夫婦を入れれば今回は七人もの人間が例の女に殺されたことになる。

「この遺体はこの家の夫婦の子供……いや、知り合いとかか? ってか、いつもと手口が違いすぎじゃねぇ?」
「……それは私も気になっていた」

 これまでは主に若者やカップルが狙われていた。それも場所は様々だったものの、今回のように誰かの家というのは初めてだ。普通、この手の連続殺人を犯す呪詛師、いや、この場合は普通の殺人でも同じだが、そいつなりのルールがあるようで滅多のことじゃ手口は変えない。なぜ急に手口を変えたのかが気になった。

「今回は目と口、そして耳の三か所が欠損してる」

 遺体の前に屈んだが呟く。見れば確かに黒焦げではあるものの、その部分が大きくへこんでいるのが分かった。とすると、焼け落ちた家のどこかに例のラクガキが描いてあったんだろうか。いや、最後に火をつけるというのも今回が初めてだ。そもそも描いてなかった可能性が高い。

「どう思う? これまでとやり口がガラリと変わった――」

 と言いながらを見て言葉を切る。彼女の顔が驚きで歪んでいたからだ。

先輩……どうした?」

 彼女は遺体のうち、一番下に転がっていた人物を凝視している。

「おい、……」
「これは……辰巳だ……」
「あ? 誰?」

 信じられないといった様子の彼女を見て、俺も遺体を覗き込む。その遺体も他と同様、目と口、そして耳が切り取られていたが、が指したのは首元に残っていたネックレス。体と同じく黒焦げにはなっているものの、獣の爪のような変わった形をしていた。

「この遺体は……私の婚約者の兄だ」
「は?」

 その情報はさすがの俺も驚く。だがもっと驚いたのは――。

「そしてこっちの遺体は……多分その婚約者さまだ」

 とがもう一人の遺体を指す。その遺体の首にも似たような形状のネックレス。だが爪の向きが逆になっている。

「どういう、ことだよ……婚約者って……」

 何が何だかさっぱり分からない。そう思いながらを見ると、彼女はフラつく足取りで立ち上がり深い溜息を吐いた。にしては珍しいくらいに動揺している。

「……ホントにそいつなのか? ネックレスなんて似たようなもん、いくらでも……」
「このネックレスは……特注品だと聞いてる。狗神を崇めてるつもりだったんだろう。兄弟で左右逆向きのものを子供の頃から身に着けていると言っていた。右向きの物は兄。そして左向きのは弟」

 この形は間違いない、とは言った。ついでに他の遺体もきっと家の誰かだろう、と。
 
「は? 何だよそれ……何で先輩の家の奴らが例の女に狙われて……」

 これまでは彼女のことを自分側へ引き込もうとするような行動をしていた呪詛師が、突然一族へ牙を剥いた。その意味は、真意は。
 は自分の一族や婚約者のことを良くは思っていない。こいつらを殺したところで呪詛師の側へ傾くはずがない。
 その時、黙って遺体を見下ろしていたがポツリと呟いた。

「……"カノジョ"は……オトネは……私をあの家から解放しようとしてるのかもしれない」

 それを聞いた時、俺は嫌な予感がした。女の思惑は静かに、密やかにを絡めとっていくようで、初めて怖いと感じたのかもしれない。

「五条、くん……?」

 体が勝手に動いて、気づけば彼女を抱きしめていた。触れていないと、どこか遠くへ行ってしまいそうだったから。

「勝手にどこへも行くなよ……」
「……何を言って――」
「この先その頭のおかしい女が何をしようと……をあっち側には絶対行かせねえから」

 彼女が驚いたように俺を仰ぎ見るから、その無防備な唇へ触れるだけのキスをした。情けないけど、こういう時、どうやって好きな女を引き留めればいいのか分からない。彼女の中にも、善と悪の狭間で葛藤があるんだと気づいた時から考えているのに。
 は何度か瞬きを繰り返したあと、ほんの少しだけ表情を緩めると、俺の胸に額をくっつけた。
 
「バカだな、五条くんは……」

 その呟きにも似た小さな言葉は、耳に優しく響いて。この時の俺は、ほんの少しだけホっとすることが出来たんだ。



ひとこと送る

メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで