16-後輩以上、恋人未満
※夏油視点
蒸し暑く寝苦しい夜だった。なかなか寝付けずベッドを抜け出すと、喉を潤したくて寮の前にある自販機へ向かう。
そこにはポツンと気持ち程度の外灯があり、自販機をぼんやりと照らしている。
緑に囲まれているせいか、外灯に集まる虫は相変わらず多い。女子寮の方も同じようで、硝子が自販機を使用するたび毎回殺虫剤を撒いて追い払ってると話してた。
キリがないだろう、と笑ったけれど、前に一度ジュースを買ってる時、硝子の顔に蛾がぶつかってきたらしく、それがトラウマになったようだ。
それはさすがに怖いな、と言ったら、悟に「呪術師のくせに蛾が怖いのかよ」とからかわれた。そうは言っても呪いと蛾では存在そのものが違うし、蛾の類は怖いと言うより気持ちが悪いといった方が正しい。鱗粉を撒き散らす奴が顏にぶつかって来ると想像しただけで……鳥肌が立つ。
ふと外灯を見上げると、まさに大きな蛾が数匹、気持ち程度の灯りに群がってるのが見えた。これが小さいならまだ見逃せるが、この辺のやつは何故か異様に大きい。胴体なんかは親指くらいある。
「きも……殺虫剤を買ってきてもらおうかな」
補助監督の誰かに頼もうかと考えつつ、小銭を入れてずらりと並ぶドリンクを眺める。いつもは冷たいコーヒーを買うところだが、寝る前にカフェインを摂るのも躊躇われて、普段はあまり飲まないコーラのボタンを押した。
がこん、と間抜けた音と共に缶コーラが落ちてくる。不意にもよおした欠伸を噛み殺しつつ、拾うのに屈もうとした時だった。人の気配を感じてふと視線を向ければ、悟がふらふらとした足取りで歩いて来る。今夜は先輩と映画デートということで、夕方別れたきりだった。
それにしては帰宅するの遅くないか――?
若干の疑問を持ちつつ、缶コーラを掴みながら「お帰り、悟」と声をかけたら、悟はぎくりとした様子で立ち止まった。普段なら良く視える眼で私がここにいることくらい、すぐに気づくはずの悟が、今初めて私の存在に気づいたような反応だ。
「傑……まだ起きてたのかよ」
「この暑さじゃなかなかね。だから寝る前にこれ買いに来た」
言いながら缶コーラを見せると、自分も飲みたくなったらしい。悟はガシガシと頭を掻きつつ、「俺も飲も」と自販機の前に立つ。その時、悟からふわりといい香りがしてきた。それは香水の類ではなく――。
「あれ、悟。どっかでシャワーでも浴びた?」
「……ぅ」
ボーっとした表情でコーラを買っていた悟が、私の一言で明らかにギクリとした。でもすぐに落ちてきた缶コーラを手にすると、寮の方へサッサと歩いて行く。その反応に違和感を覚えた。
「おい、悟?」
「……何で?」
追いかけて声をかけると、悟は寮の廊下で足を止め、ぼそりと聞いてくる。一瞬何が「何で」なのか分からなかったが、すぐに私が言ったことへの質問だと気づいた。
「え?ああ、いや。かすかにボディシャンプーのような匂いがしたから。普段使ってるのとは違う匂いだし、どこかでシャワーでも浴びたのかと」
「……」
「ん?図星かい?」
振り向いた悟のサングラスが僅かにズレて、目を細めているのが分かった。何となく私の言ったことは当たってるんだなと感じて苦笑が洩れる。
ただ、じゃあどこでシャワーを浴びたのか。そもそも今夜は先輩とデートだったはず――。
「え、悟……まさか――」
「傑……」
一瞬あり得ない想像をして問いただそうとした時。私の言葉を遮るように悟が口を開く。
「……体は許すけど付き合えないって言われたら、どうしたらいいわけ」
「は?」
あの「俺さま至上主義」の五条悟が、生まれて初めて他人に泣き言を言った瞬間だったかもしれない。
事情を全く知らない私はただ、ぽかんとするばかりで、どう応えていいのかも分からなかった。
とりあえず蒸し暑い上に虫だらけのこんな場所でする話でもなさそうだ。「部屋で聞くよ」と悟を促し、寮の部屋へ連れていく。
悟は相当弱っているのか、気持ち悪いほど(!)素直についてきた。
「で、何があったんだい?一から分かるように説明してくれ」
ベッドへ腰をかけながら缶コーラのステイオンタブを引く。ぷしゅっという小気味いい音を立てたが、中身は若干温くなってしまったようだ。一口飲むと炭酸の加減で分かる。座椅子へ座った悟も同じように開けて一口飲むと、缶の口の部分をジっと見つめていた。
「あんま冷えてねえな、これ」
「ああ。まあ……こう暑いと買った瞬間じゃなきゃキンキンではないかな」
どうでもいい会話を交わしつつ、悟が話しだすのを待つ。素直についてきたということは、話を聞いて欲しいと思ったからだろう。さっき言ってたことを考えれば、先輩と何かあったのだけは分かるし、内容も何となく想像できる。ただ、何故そんな流れになったのかまでは分からないから、その辺は悟から聞くしかない。
悟は一口、二口とコーラを飲んだあと、はぁ、と小さく息を吐いた。前の悟なら考えられないが、先輩を好きになってからの悟は気づけば溜息をついている。
好きな子のことで悩むなんて、なかなか青春してるじゃないか、私の親友は。
悟は手の中のコーラの缶を軽くへこませてはぺキっと音を鳴らして遊んでいる。そうしながら頭の中で言いたいことをまとめているようだった。
そのうち残りのコーラを一気に飲み干すと、いつものように空き缶は悟の手の中でピンポン玉より小さな塊となり、私の部屋のダストボックスへカランと音を立てて納まった。
それを眺めつつ。炭酸の一気飲みが苦手な私は、のんびり温くなったコーラを飲む。
キンキンに冷えてる時は美味いと感じる飲み物だが、温くなったコーラはただの甘ったるい炭酸水でしかない。喉の渇きも納まったことだし、残りは捨てようか、と考えた時だった。
悟がふと顔を上げて私を見た。
「実はさ」
「うん?」
やっと話す気になったのかと、少しだけ前かがみになり、膝に両手を置く。悟はサングラスを外してそれを手の中で弄りながら、ぽつりぽつりと今日あったことを話し出した。
まあ、だいたいは私の予想通りの展開で驚きはしなかったが、先輩からホテルへ誘ってきたというのは少しだけ意外な気がした。
「そうか……で、やっぱり付き合えないとダメ押しされた?」
「……チッ。ニヤついてんじゃねえよ」
「酷いな。元々こういう顔だよ、私は」
と言いつつ苦笑いを浮かべれば、悟は面白くもないといった表情でそっぽを向いてしまった。相当へこんでいるように見えていたが、話を聞けば半分はどこか浮かれているようにも見える。きっと先輩から抱かれてもいいと思ってもらえたことが嬉しくて仕方ないんだろう。いや、好きだと言われたことかもしれないが、好きにも色々な意味があるし、彼女がどういう意味合いで言ったのかまでは測り兼ねるところだ。
それでも――。
「ったく……家の事情に巻き込みたくねえとか、そんな理由でフラれんの納得いかねえ」
「それだけ特殊な家系なんだろうね。悟も前はそんな話をしてただろ」
「そーだけど!憑神を継承させようと一族の中で婚姻を結ぶしきたりとか、もうどうでもよくね?いっその代でなくした方が、この先悲しい思いをする人間が減るんだしいいと思うけど。ってか、この場合の子供とかになるんだろうし……」
「そうかもしれないが……崇めることで家という家を憑神が代々護ってきたんだろ。それを急にやめるとなれば……」
大きな呪いを生み出す可能性がある、というのを悟だって知らないわけじゃない。案の定「俺なら憑神を抑え込める自信がある」と言い出した。
「憑神はと同化してるから倒すことは出来ない。そんなことをすれば彼女を殺すと同意だから。だけど万が一暴走した時、抑え込むことは出来る。元々は獣の妖怪みたいな存在だから、自分よりも強い相手が現れたら服従すると思う」
「なるほど……まあ、そういう手段もあるってことか。でも先輩だけじゃ決められないんじゃないのか」
「それは……まあ」
途端に悟も歯切れが悪くなる。五条家と同じような長い歴史を持つ家なのだから、個人で決めるには大きすぎる問題だ。
「いっそ一族、全て消すか……」
「……それ冗談に聞こえないからやめて」
苦笑交じりでちらりと視線を向ければ、悟も軽く吹き出している。少しは笑う元気が出てきたようだ。
「ハァ……何かこうして冷静になると、すっげーもったいないことした気分になるわ」
大げさなほどに項垂れる悟は、本気で後悔しているらしい。何を「もったいなかった」と嘆いてるのかはすぐに分かった。
「そりゃ好きな子から抱いて欲しい、なんて言われたらそうだろうね。ただ私は悟が据え膳くわなかったことに驚いてる」
「うるせ……また同じ状況になっても断るっつーの」
そういうのはとちゃんと付き合ってからって決めたんだよ、と悟は口を尖らせた。
タコかな?と突っ込みたくなる小学生みたいな表情は、まあ置いとくとして。
悟のその心意気は男の私から見てもカッコいいと思う。
二人がこの先、互いに納得いく形で上手くいけば、私としては嬉しい。
だが、この時の私達はまだ知らなかった。
数日後、冗談で話していたことが、現実に起こることを。
⌘
『……来られない、とはどういうことだ?彼から連絡がきたぞ』
電話をかけたら開口一番、父の口から案の定な言葉が吐き出された。
「どういうも何も。忙しいから今月は行けないと伝えたまで。任務を放ってまで会う道理はないと思いますが」
『……父に、いや……家当主に対して随分な物言いだな』
「母を殺したあなたを父親だとも当主だとも認めたことはない」
通話口の向こうで息を呑む気配を感じた。大方、怒りで言葉を失ったんだろう。
『あいつが死んだのは病気だ。何度言えば――』
「私を家から逃がした罰という名の暴力の先で死んだなら、それは立派な殺人だ」
『オマエはまだそんなことを――!』
「私がオマエ達に手出しをしないのは、その母の意志だからというのを忘れるな。その気になれば一族もろとも殺せるってこともな」
これまで、母の意志を尊重して"人"であることを選んだ。私の中の獣が解き放たれることのないように、と誰よりも願ってくれていた母。その母が護ろうとしていた一族の風習を受け入れ、憑神として家を護ろうとも思っていた。
けれど、その歪な覚悟が揺らいだのは、"カノジョ"が再び現れたからだ。
――早くこっちへおいで。
私の体の奥深くで眠っている獣を刺激するように、少しずつ、少しずつ近づいて来る。ここ最近起きた一連の事件は"カノジョ"にとったら余興に過ぎない。けど確実に私のことを誘っている。
自由に、好きなように生きなよ、と。
それが私の心をざわつかせる。ほんの少し本能を解き放つだけで、幼い頃から沈殿している父への殺意が溢れ出しそうだ。
その事実を、この男は知らない。気づいてもいない。いつまで経っても私が従順でいると思っている。愚かな男だ。
これまで自分の本音を伝えたことはない。言ったところで手出しは出来ないのだから無駄だと思っていた。
でも今、ハッキリとその言葉を口にしたことで、父の声が震えたのが分かる。
「これからは私が行きたい時に行く。あの男にそう伝えて下さい。お父さま」
それだけ言うと一方的に電話を切る。無意識的に深い息が洩れたのは、やっと本音を言えたという爽快感と安堵の思いからだ。
五条くんと別れ、寮の部屋へ帰ってから実家へ電話をした。映画を観ている最中からケータイが振動し続けていたのは知っている。どんな用件なのかということも。
でも一時の平穏な時間を邪魔されたくなくて放置していたのだ。
ベッドへ寝転がり、天井を仰ぎながら、生まれて初めての映画デートを思い返す。あんなにも普通の時間を堪能したことはなく、なかなかに新鮮で楽しかった。
普通のカップルがするようなことを、一度はしてみたかったから。
(結局、五条くんは私を抱かなかったな……)
情熱的なキスを交わしても、どんなに誘惑しても、彼は乗って来なかった。どうやら五条くんは他の男と違うらしい。
「遊びで抱くのは嫌だ、か……。今時珍しい」
ごろりと寝返りを打ち、苦笑を漏らす。私にはそんなつもりすらなかったのに。
そもそも遊びだとか、抱き合ったあとにどうするかなんて考えていなかった。五条くんに抱かれてみたいと思ったのは、もっと衝動的なものだったからだ。そこに具体的な理由はない。
誘えば男という生き物は簡単に乗って来るだろうという予想を遥かに飛び越えて、五条くんは見かけによらず一途で真面目な男だった。
ふと、悪いことをしたなと思う。半信半疑でもあったが、あれでは彼の気持ちを利用したみたいになってしまった。
五条くんのことは彼にも言った通り、好意的に思っているし他意はなかったが、結果としては傷つけることになったかもしれない。
こういう時、どう謝罪したらいいんだろう。そんな簡単なことも経験がない私には分からなかった。
その時、手にしたままのケータイが軽く振動した。また父から?とうんざりしたが、見ればメールを受信したようだ。
「五条くん……?」
送り主を確認すると、それは先ほど別れたばかりの五条くんからで。もしや文句の一つでも送って来たのかと思った。でもメッセージを見て、ふっと笑みが漏れる。
『今日は色々あったけど、でもデートは楽しかった。また映画誘っていい?』
どうやら、まだ嫌われたわけじゃなさそうだ。すぐに「いいよ。お休み」と返信しておく。すると秒でメールが返ってきた。
――おやすみ。
その一文と一緒に眠っているペルシャ猫風のキャラクターが添付されている。前、私が彼に似ていると言った猫だ。
こんなメールのやり取りも初めてで、どこかくすぐったい。
さっきまで溢れ出そうだった負の感情が、少しずつ凪いでいく。やっぱり五条くんは私を"こちら側"へ戻す役割をしてくれるようだ。
彼は恋人じゃない。だけど、ただの後輩というにはもう違う気もする。
しばらくその動く猫を眺めていたら心が安らいで、いつの間にか眠りに落ちていた。

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