哀切の雨
娘が門の中へ引き入れられるのを物陰から覗き見ていた男は、「へえ、本当に来たんだ」と呟き、ふと空を見上げた。びっしりと曇が広がる夜空からは、絶え間なく細かな雨が降り注いでくる。
この霧雨は誰の涙に変わるのやら——。
微笑と共に独り言ちた男の名は、"羂索"。
帝のなりをしているが、中身はれっきとした呪術師だ。
「なるほどなるほど……あの女もなかなか酷なことをするものだ。しかし、そうか。あの宿儺に弱点がねぇ……」
色白の頬に受けた雨粒を指で払い、男はくく、と小さな笑みを噛み殺す。もし万の言っていたことが事実なら、最も欲しかった最後の駒が手に入るやもしれない。
……が、果たして——生ける者全てから鬼神と恐れられている男が、あんな小娘の為に動くのか、否か。
その辺りは未だ半信半疑。宿儺という男を、羂索はまだ測り兼ねていた。
「——そこにいるのは誰だ!」
「あ……あ、貴方さまは——っ」
確かめなければ、と一歩足を踏み出したところで、門警備の術師に見つかった。何せ、今の姿はことさら目立つ。
——あまり騒がれても面倒だ。
仕方ない、と羂索は音もなく彼らを排除して、屋敷の敷地内へ滑り込む。目的は宿儺の弱点かもしれない、という娘が、果たしてどういう人間なのか、この先どうなるのかを確認する為だ。
宿儺を手に入れる為にこの策を講じた万の狙いは、生贄として体よく追い出した娘の予期せぬ生存、かつ宿儺との愚行を許さぬ家族に、制裁という名の理由と実行の機会を与え、彼女を殺してくれたら幸い……というところだろうが、羂索の思惑は違う。
娘が宿儺を動かすほどの存在なのか、否か。興味はそれ一点である。
もし利用価値が高いと羂索が考えた時は——万の望みが叶うのも、一時の幻となるだろう。
「へえ、なかなかやるなあ、あの子。あれは……鳥獣ではなく……自然操術か……何とも興味深い」
他人の肉体を媒体にしながら、長いこと生にしがみついている羂索ですら初めてみる術式だった。動物だけではなく、生きとし生けるこの世の理に逆らうような、恐れ多い力。まだ上手く使いこなせていないようだが、極めれば相当に厄介な力となるだろう。
しかし今はまだ、兄だという術師の力量には敵わない。圧倒的に、戦闘における経験差が違いすぎるのだ。このまま戦い続ければ、いずれは殺されるだろう。
「うーん……このまま殺させるより……あの体も欲しいところだね」
今ならまだ容易く彼女の体を奪えると、羂索は考えた。……とはいえ、己の計画に宿儺は必要不可欠。脳を入れ替える術式を知られている以上、娘の体を乗っ取り宿儺を騙しきることは不可能だと悟った。それに今の計画を優先させるなら、娘を手に入れる行為は悪手と言えよう。やはり、ここは宿儺の動き次第にも寄るが、餌として有効になり得る娘には一先ず死んでもらわなければならない。
「そうだ。もう一つやってみたい試みがあった。あの子はそちらに使わせてもらおうか」
喜色の交じった声で呟き、うんうん、と一人で納得するように微笑む。
このあと、屋敷内で起きた惨劇も、彼女がどういう末路を辿ったのかも。羂索は全てを見ていた。だが、彼は何もせず、ただひたすらに傍観し続けた。この後にくるかもしれない、至上最悪の"厄災"を、心待ちにしながら。

瞬きすら終わらないうちに、全ての感覚が途絶えた気がした。あんなにも待ち望んだ"死"のはずが、これほどツラいことだったとは。
たとえば……こんな世でなかったのなら、心に芽生えた淡い想いを、あらぬ思ひを、周りに許されたのだろうか。
たとえば、わたしが家族から愛される存在だったなら、言祝ぎを受け、授かった命を喜んでもらうことが出来たのだろうか。
もし、いつか生まれ変われる日が来るのなら、その時は、次こそは——この身に余るほどの恋しさを、貫き通せる世であって欲しい。
そんな平和な世で、あの方に出逢えたらいいのに。
——だから阿呆だと言うのだ、オマエは!
どこか温かみを含む説教が頭の中で響き、思わず申し訳ありません、といつものように謝った。もちろん罰を受けたくない一心で。
裏梅さまの"アレ"は、絶妙に痛いのだ。
「ど、どうか尻叩きの刑だけは……っ!」
ぱしん、ぱしん、と叩かれる痛みを思い出し、咄嗟に頭を下げた、気がした時。不意に目覚めを迎えた感覚に陥った。靄のかかっていた頭が、何ともすっきりとしたような——。
「おや。どうやら間に合ったようだね」
初めまして、お嬢さん、と何やら頭上で声が聞こえたと思った瞬間、ぱちりと目を開けた、つもりだった。しかし開けたところで真っ暗闇。何一つ、見えはしない。
「これは……い、一寸先は闇という現象……もしかして……ここは地獄……?」
あの方を慕うこと、子を宿したことが、兄の言う「おぞましい罪」だと言うのならば。わたしが送られるのは、やはり地獄なんだろう。そう納得しかけた時だった。
「ははは、尻叩きだとか地獄だとか。さっきから面白いことばかり言う子だね」
「は……?」
再び知らぬ声が降ってきたことで酷く仰天した。声のした方……つまりは上へと視線を向ければ、暗闇の中に色白の男の顔が浮かんでいる。
「ぎ、ぎゃぁぁぁあっ! な、生首……お、お化け……!」
「お化けとはひどいな。それに生首なのは君だろう?」
「……ひっ。く、首が……しゃ、喋った……」
色白の男は呆れたような表情で溜息まで吐いている。ただ、解せぬことを言われた気がして、目を何度か瞬かせた。
今、確か「生首なのは君」……と、そう言われたような——。
「は」
そこで思い出したのは、兄上の刀で斬られた瞬間の記憶と、視界がぐらりと揺れた感覚だった。
「あ、あれは夢では……こうして話すことが出来てるわけですし——」
と、無意識ではあったが普段のように体を起こそうとした。でもそれは意識だけだったようだ。わたしはとうに起き上がる体を失っていたらしい。首から下の感覚は……皆無だった。
というよりも。生首だと感じていた男は全身に黒い装束を着ており、単に色白の顏が浮かび上がっていただけ。そして……わたしは——。
いや、わたしの頭は、男の両手にしっかりと抱えられていた。何とも妙な怖気が全身に……いや、頭部に走る。
「ひ、な、何故ゆえ……お、お化け……わたしがお化けなのですかっ」
「……ふはっ。本当に面白いな、君。あの宿儺が気に入るのも分かる気がするよ」
「す、宿儺さま……? 貴方は宿儺さまのお知り合いの方なのですかっ?」
「まあ、否定はしないよ」
ますます混乱してきたものの。現状、一番気になるのは、まず自分の状態だった。生きているのか、死んでいるのか。あまりに曖昧過ぎて、自分自身、とても気持ちが悪い。
「あ、あの……この状態で何故話せるのかは存じませんが、わたしは兄に殺されたのでは——」
「ああ、それはそうなんだが……実際は生首の君が話してるわけじゃない。どう説明したらいいのやら……まあ、少しの間なら意識の中で会話ができるんだ。わかるかい?」
「い、いえ……意識、と言われましても……」
「そうだな。簡単に言えば君の魂、つまりは……意識が消滅するまで猶予がある、という意味だ」
「は、はあ……」
男の説明はよく分からなかったものの。この世に未練を残した者ならば、死後であっても成仏までに猶予がある、ということなのだろうと勝手に解釈した。何故ならわたしは、とてつもなく大きな未練を残してしまったのだから。
「……わたしが死んだということは……お腹の子も——」
「残念ながら、ね」
それを聞き、強く唇を噛みしめた感覚があった。守れなかったという後悔と共に、喉の奥がびりびりと痛む。すでに死んでるというのに、こういう感覚だけは残ってるらしい。
以前のわたしは死ぬことなど怖くもなかった。生きていることの方が地獄だったからだ。家の為と嘯いたところで、本心は逃れたかっただけなのだ。あの家の、強大な呪いから。
だけど、宿儺さまと裏梅さまに出会い、自分の為に生きることの幸せや、人の温もり、そして優しさを教えて頂いた。わたしはの家を出て、初めて息をすることが出来たのだ。
その御恩に報いる為にも、生きて戻らねばいけなかったのに——。
結局は、わたしの我がままで御二人を裏切る形になってしまった。
「あんな文など信じてはいけなかったのに……わたしは本当に、呆れるくらいど阿呆です……」
「後悔してるのかな?」
この方がどこの誰かは知らないけれど、問われた言葉に「はい……」と頷けば。彼は涼し気な眼差しを薄っすら和らげた。
「それなら話は早い」
「話、ですか?」
「そう。君に頼みたいことがあってね。だから、こうして無理に引き留めてる」
「はあ……そう、なんですか」
頼み、と言われて疑問に思う。もはや生首のみと成り下がった女に、いったい何が出来るというのだろう——?
おかしなことを言う方だ、と思ったけれど、これも何かの縁。最期にこうして話を聞いてもらえただけで、わたしは安らかに成仏できる気がしていた。
されど、この方の突飛な問いを聞いた時。呑気なわたしと言えど、我が耳を疑ってしまった。
「君、もう一度この世に生まれてきたいとは思わないかい?」
「…………は?」
「君さえその気なら……私がもう一度、君に生きる機会を与えられるんだが……どうかな」
しんみりしていたところへ、何とも奇妙な提案をされた。まさか、そんなことが? もう一度生まれてくるなど、出来るはずもないのに。
いや、でも。もしかしたら、このお方は——。
「……あ、貴方さまは……もしや……か、神様……なのですか」
「ぷ……またしても面白いことを言うね。この私が神に見えるのかな?」
おずおずと尋ねれば、彼は一際目を丸くした。ついでに、その綺麗なお顔には似合わぬほど、派手に吹き出されたようだ。わたしは至極、大真面目だというのに。
「いいかい。残念ながら、私は神でも仏でもない。しかし、私と契約することで君を再びこの世に戻してあげられる力があるんだ。方法は極秘なので言えないがね」
一頻り笑ったあと、彼は艶やかな笑みを携えてそう言った。
「は、はあ。え? では……真の話、なのですか? 生き返ることが出来ると言うのは……」
この際、死神でも何でもいい。もし生き返らせてもらえるのなら。
そう強く思ってしまったのは、やはりもう一度だけ。宿儺さまと裏梅さまに会い、自分の愚かさと、しでかした罪を謝りたかったからだ。生まれてくるはずだった命を、母として守れなかったのだから。
わたしの問いに、男はにこりとしながら頷いた。
「もちろん本当だ。ただし……元の君のまま生き返るわけじゃない。すでに死んだ肉体は、例え反転術式であっても修正は不可能だ」
「で、では……どういう……」
「言っただろう? 君はもう一度この世に生まれてくるんだ。まあ、それはこの時代じゃないんだけどね」
「はあ。え……っと……この時代じゃない、とは——」
「君が生まれる時機は私が見定める。まあ要は……君がもう一度、宿儺に会いたいかどうかで決まるが、もし会いたいのなら私は喜んで協力する、ということだ」
「宿儺さまに……?」
「そうだ。まあ、事と次第によっては君も彼も今の姿とは多少異なるかもしれないがね」
それでもいいなら、と彼は微笑んだ。その辺の不可思議な話は正直、よく分からない。けれど、宿儺さまに会いたいか、という問いだけは迷う気持ちなど微塵もない。
「会いたいです……あのお方に」
真っすぐ男の目を見据えながら、恐れ多い思いを口にする。本当なら、わたしなんかがお慕いしていい相手ではないのかもしれない。だけど、それでも。
わたしは宿儺さまに会いたかった。たとえ、どんな姿に変わっていようとも。
「わたしをもう一度、この世へお戻し下さいませんか」
「……承諾した。契約成立だ」
男はわたしの頭をゆるりと撫でながら、その美しいかんばせに、満足そうな笑みを乗せた。
「ただし、途中で君には頼みたいことがある。そういう契約にはなるけどね」
「頼みたいこと……?」
そう言えば先ほども、そんなことを言っていたような——。
と、考えを巡らせようとした瞬間。ぷつりと意識は途絶え、再び深い、深い闇へと落ちていく。
結局のところ。男のいう"生まれる時機"がいつのことを指していたのか分からないまま、契約とやらは成立したらしい。途中幾度か生まれ落ちる機会はあったらしいが、わたしがわたしとして目覚めるのは——この世から数千年もあとのことだった。

その引き金を引いたのは、はたして誰だったのか。
善を信じる呪術師か、それとも悪の象徴と恐れられていた彼の方か。
呪術師は本当に善で、そして彼は本当に悪だったのか。
この世に善悪と言う概念がある限り、その先の答えなど見つからない。永遠に——。
「これは……」
家へ向かう道中、数十頭ほど動物たちの死骸が転がっていた。体毛は焼け焦げ、原型すらとどめていないものもいる。それは、まるで家から逃げだして来たかのように、屋敷から転々と続いていた。
「……の術式だろう」
宿儺さまがそう呟いた瞬間、だった。
「——やあ。少し遅かったようだね」
家の正門の前に、何とも小奇麗な男が立っていた。にこやかな笑みを張り付けたその男は、私でも知っている。
この国の最高権力者が、何故、共の者も連れずこんなところに。
それを問う前に、宿儺さまが応えた。
「オマエ……何故ここに——」
と、そこで言葉を切った宿儺さまの顏が、一瞬で色味を失っていく。その理由に、私も気づいてしまった。帝……いや、帝の姿をした人物は、その手に何かを抱えていた。それは——。
「……おっと。勘違いしないで欲しいな。この子と腹の子を殺めたのは私ではないよ」
宿儺さまがいつ攻撃を仕掛けたのか、私ですら見えなかった。
……が、帝は何かを避ける素振りをし、次の瞬間には色白の首がぱかりと切れて傾いていく。
本来なら即死。薄皮一枚のみ残された状態で、帝は笑いながら首を元へ戻した。
やはり、この男。帝ではなく、呪術師。それも不思議な術を持っている。
だが、今の私にはどうでもいいことのように思えた。この男が何者にしろ、今発した言葉と、その手にあるものが幻ではないという現実を、何一つ、何一つ受け入れられない。
それは宿儺さまも同様だった。
「子……だと……?」
「何だ。知らなかったのか、宿儺。彼女は腹に子を宿していたらしい。それを"重罪"と称してふたりを殺めたのは家、嫡男。この子の——」
「——鬼神だ! 両面宿儺が来たぞ!」
男が言い終える前に怒号が響き、正門から呪術師たちの大群が姿を現わす。私たちが来ることを予想して待ち構えていたのか、藤原の精鋭部隊まで呼び寄せていたらしい。最近まで我々に張り付いていた、藤原生き残りの呪術師たちだ。
その部隊を引きつれ、我が物顔で先頭を歩いてきたのは、本来奴らを率いているはずの万ではなく——。
「のこのこと現れおったな、両面宿儺! 出来損ないの妹でも、我が家の人間を汚した罪は重い! 藤原の姫殺害容疑と共に貴様は家次期当主である、この私が直々に——」
男がそれ以上、戯言を吐くことはなかった。藤原の精鋭部隊もひとりとして、動けなかった。
「領域展開……"伏魔御廚子"」
鼓膜を震わせたのは。誰ひとりとして生かすつもりのない、憤懣やるかたない、呪いの言葉。
その刹那——視界に映る全てのものが塵と化したのを、私は確かに見た。
悲鳴すら上げることを許さず、解、捌と、絶え間ない攻撃が、無限の刃が、辺り一帯に血の雨を降らせ、塵に変えながら削いでいく。家の屋敷だけではない。この地に根付く全てのものが、一瞬にも満たない速度で、この世から消え去った。
それでも、奴らの蛮行が赦されることはない。
「——竈」
宿儺さまの全身から、悲憤慷慨する焔が燃え盛り、一帯を紅に染めあげ焼き尽くす。塵一つとて、この世に残すことは赦さないのだろう。全てが更地となったところで、溢れ出る激情は収まらない。
それら全てを言の葉に乗せ、宿儺さまが初めて咆哮を上げた。
焦燥、憤怒、悲哀、絶望——。
敵意と殺意が、満ち満ちていき、宿儺さまに哀切の雨が降り注ぐ。
この先、永劫消えることはないであろう、その感情の名はたった一つ。
あの方の根底に潜む、最も純粋なる"邪悪"——。
この世でただ一人。初めて慈しむことの出来た存在を失った痛みが、無間地獄に堕ちていく嘆きが、魂魄をも引き裂く衝動へと変化し、膨大な質量で膨れ上がるのを、私は己の眼に焼き付けた。
この世の人々はそれを——呪いと呼ぶのだ。
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