純粋なる善は呪わしき悪④




 正直、私はがそこまで家族に対して想いを残しているなどとは、一切考えてもいなかった。

「申し訳ございません……! こんな物を受けとっていたとは思わず——」

 畳に頭を打ち付ける勢いで土下座をしたが、宿儺さまは無言のまま何度もその文を読み返しているようだった。

(ぬかった……まさかの者があんな文を寄こすとは……!)

 体勢を崩さず、拳を強く握り締める。まさか、がこんな行動に出るなどと、露ほども予想していなかった自分の愚かさにすら腹が立つ。同時に、この文をへ渡した人物への殺意が、腹の底から溢れ出てきた。
 
(あの女だ……! どういうつもりかは知らないが間違いない。万があの医者を使い、に文を……!)

 数刻前、が消えたことに気づいたのは偶然だった。湯浴みの準備を始めて少し経った頃、の部屋に宿儺さまの着替えを忘れて来たのを思い出した。に薬膳を食べさせたあと、そのまま風呂場へ向かうつもりで持って行ったものだ。私としたことが、と己に呆れつつ、すぐにの寝所へと戻った。しかし、寝床はもぬけの殻。
 呆気にとられたものの、最初は単に厠へ行ったものと、さして気にも留めなかったのだが、畳の上へ置いたままの着替えをとる際、敷布団の下から僅かに覗いていた文を見つけた。当然、何事かと中身を確認した私は、内容を理解した瞬間、顔から血の気が引いていくのを感じた。慌てて隣接している*塗籠ぬりごめへ向かうと、そこに収納していた外出用の着物が一着なくなっている。(*収納や寝床に使う部屋)
の着物は全て宿儺さまが見立て、私が皺にならぬよう大事に畳んでおいたのだから、数を間違えるはずもない。
 そこで私はすぐに悟った。は母に会うため、家へ向かったのだと……。

「申し訳ございません……宿儺さま! こんな単純な仕掛けに気づかなかった私の失態です!」

 万はの素性を調べ上げ、己の目的の為にこんな仕込みをしたに違いない。が体調を崩したと聞き、これ幸いと自分の手のうちにある医師を連れて来たのだ。はらわたが煮えくり返るとは、まさにこのことだ。
  手をついている畳が凍りつき、ぴしり、と乾いた音を立てる。その瞬間「裏梅」と呼ばれ、即座に顔を上げた。

「……行くぞ」
「はっ」

 その一言で十分だった。宿儺さまからはこれまで感じたこともないほどの、重苦しいナニカ・・・が滾り、全身から溢れでている。それは憤怒だけではない、今までの宿儺さまが持ち得なかった、最も御しがたい、人としての感情。
 宿儺さまは恐れているのだ——。
 あの娘を失うかもしれない、という先の見えぬ未来を。
 
 宿儺さまが何かに恐れを抱いている姿など、私は一度たりとも見たことがない。そして、その事実に気づいた私もまた、同じものを抱いているのだと深く感じていた。己の術式より凍てつくナニカ・・・で、身体の芯まで冷えていく。
 音もなく飛び出した宿儺さまに続きながら、全身を巡る呪力がこれまでにないほど、大きく膨れ上がるのを感じた。今なら、この降り注ぐ全ての雨を、天ごと凍てつかせることすら造作もないに違いない。
 煌びやかに佇む、この都でさえも。



 


 

 「あ……っや、やめ、て……っ!」

 あられもない恰好にされ、医師とはいえ、会ったばかりの男に恥部を凝視されながら、弄繰り回される。下腹を何度も押され、また股を覗かれる。その屈辱的な恥ずかしさは、今すぐ舌を噛み切ってしまいたいほどだ。兄が何故こんなことをさせるのかも理解出来ず、わたしは泣き叫ぶことしか出来なかった。

「これは……」

 どのくらいの時が過ぎたのか。不意にわたしの股を覗いていた医師がぽつりと呟く。わたしはすでに息も絶え絶えで、顔中を涙で濡らし、朦朧とする意識の中、それを聞いていた。

さまの仰る通り。妹君には……ややこがおりまする」
「……くっ。やはりか!」
「あ……兄、うえ……?」

 不意に拘束が解かれ、体の自由が利くのを感じた。その刹那。無意識に裾を直したのは、今の行為で宿儺さまを裏切ってしまったのでは、という罪悪感が生まれたからだ。何かを言われたわけじゃない。けれど、宿儺さま以外の男に肌を晒すのが嫌だった。そう感じたのは初めてで、わたしの中で何かが生まれた瞬間だったのかもしれない。乱れた着物を手早く直しながら、いかにして宿儺さまの元へ戻ろうかと思案を巡らせる。
 でも気づいた時には遅かったらしい。目の前には、怒りで震える鬼の形相をした兄が立ちはだかった。

「おのれ……家の名を汚しおって……!」
「あっ……何を……」

 いきなり平手を頬に受け、布団の上へ倒れ込む。それでも気が済まないらしい。兄の呪力が一気に膨れ上がっていく。何に対してかは分からない。けれど、兄から感じるのは底知れぬ憤怒。それを直に感じたことで、全身の毛が総毛だつ。

(……兄はわたしに対して酷く腹を立てている……?)

 そこを理解した時、今度こそ本気で身の危険を感じた。何故、兄がこれほどまでに怒っているのか。そこまで考えた時、ふと先ほど医師が診立てを口にした時の言葉を思い出す。

 ——ややこがおりまする。

 ややこ——。
 あの瞬間はそれどころではなく、軽く聞き逃してしまったが、その意味が今なら分かる。

「……まさか……わたしの腹に……子が?」

 無意識に己の腹へ触れ、ゆっくりと擦る。わたしを産んだ母を思えば、女が子を授かる生き物だというのは分かる。男と交わることでそれが可能なのだという。幼い頃、この家の世話係の女性から聞かされた話だ。どういう理屈かまでは理解出来なかったけれど、まさか自分の身に子が宿るなんて想像したことすらなかった。かなり頭が混乱している。何故、と何度も同じ言葉が脳内を巡り、置かれた状況を細かに考えられない。
 だけど、もし本当にわたしが子を宿しているのだとすれば、その子が誰の子なのか、ということだけは——分かっていた。

「……どういうつもりだ、貴様!」

 これまで兄に逆らったことはない。咄嗟に術式を発動したのは、兄がわたしを腹の子ごと殺そうとしているのを感じたからだ。
 離れの中にどこからともなく山々の獣たちが現れ、兄や配下の術師を囲む。中には7尺弱(約2m)ほどの大熊や、猛々しい狼が数頭いて、地の底から響くような唸り声が室内に満ちていく。わたしの心に同調してるのか、恐ろしいほどの殺気を放っている。
 それらを見た医師たちは腰を抜かし、早々に悲鳴を上げながら離れを飛び出して行った。
 
 「チッ……オマエの鳥獣操術か? このような獣ごとき我が焔で焼き殺して——」
 「申し訳ございません……兄上。けれど……子がいると分かった以上、ここで殺されるわけにはいかないのです……!」

 自分一人なら諦めていたかもしれない。だけど、わたし一人の体ではないのなら、この子を守れるのはわたしだけだ。
 生きて、宿儺さまの元へ帰らなければ——。
 そう強く願ったこと。そして心のまま動こうと、初めて思えた自分に驚く。
 わたしの言葉に驚愕したらしい兄は、目を剥き、怒りの形相が真っ赤に染まっていく。
 
 「貴様……本気で言ってるのか! あの鬼神の子を産むなど気でも触れたか! 仮にもオマエは家の血を引いているのだぞ! の血と鬼の血が混ざるなど言語道断!」
 「混ざったから何だと言うのですか! だいたいの人間として扱ってもらった記憶はありませんっ! この家にいらぬ子なら放っておいて下されば良いでしょう! そもそも宿儺さまに捧げる生贄として、わたしを体よく追い出したのですから!」

 これまでの屈折した感情が、本音が、初めて溢れ出た瞬間だった。この時の兄の顔といったら、茹でたタコよりも真っ赤に染まり、思わず笑ってしまいそうになった。

(言った……言ってやった……!)

 初めて兄に逆らい、自分でも驚くほどの本音を口にした瞬間。心の奥底にあった鉛の如き重しが、綺麗に溶けていくのを感じた。まさか己の中にそんな大それた本音が沈殿していたなどと、わたし自身思いもしなかった。
 全ては家のために——。
 どの口が言っていたのだと呆れてしまうほどに、わたしは稀代の大噓つきだったのだ。
 ……いや、そうじゃない。この、熱が迸るほどの激情を教えてくれたのは、わたしに人としての「心」を与えてくれたのは——。

「宿儺さま、裏梅さま……すぐに帰りますから……尻叩きの刑だけはご勘弁を」

 わたしの操る風と共に、獣たちが一斉に術師と兄へ飛び掛かった。




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