純粋なる善は呪わしき悪②
かは、と乾いた音を吐き出したのち、男は水たまりの中へ頽れた。ぱしゃり、と水しぶきが跳ねて着物の裾を濡らしたが、万は特に気に留めることもなく視線を下げて男を見下ろした。まだ息はあるようで、骨ばった指先を万の足元へ伸ばしてくる。彼女の足元には男が倒れる際に落とした銭がある。だが震える手は銭を掴む前に、やはり水たまりを叩くように落ちて、その後はぴくりとも動かなくなった。
「悪いね。恨みはないよ」
裂かれた喉から溢れ出る男の血が、水たまりを赤く染めていく。その様を眺めていた万は感情のない声で呟いた。
宿儺の屋敷を出た帰り道。報酬として永樂銭一貫文(※小判一両分)を与えられた医者は大層浮かれていた。これだけあれば暫く食うには困らない。いい仕事を紹介してくれたと万に何度も礼を言いながら頭を下げる。顔を上げた瞬間、喉を切り裂かれるとも知らずに。
「これであの子の秘密を知るのは私だけ」
赤い紅をさした唇が、不自然に口角上げて歪む。さて、この秘密をどう活用しようかしら。そんな悪だくみをしつつ、万は足元に転がる銭を拾い上げ、「死人にコレは不要よね」と着物の裾へとしまい込む。ただふと思い直し、六枚だけ銅銭を抜き取ると、男の背中へそれを置いた。六文銭、いわゆる冥銭代わりだ。
「極楽浄土へ行けるといいわね」
亡骸にそう声をかけ、万は番傘を回しながら立ち上がると、小雨の降る中、鼻歌交じりで歩き出す。たった今、あの世へ旅立った男のことなど忘れたかのように、彼女の足取りは軽やかだった。
この件に関し、万が罪に問われることはもちろんない。都外れの路地裏で生涯を閉じた男の躯は、誰の目に触れることなく消し去られた。このあと都全てが焼け野原と化したせいだ。
それは奇しくも、男の死からちょうど49日を過ぎた頃だった。
そもそも何故、男が殺されなければならなかったのか。それは2刻半ほど前に遡る。
「——は? 両面宿儺の情婦ですって?」
都外れにある長屋住まいの元医師、松治は顔馴染みである万の話を聞き、大いに驚かされた。人を喰らう化け物とばかり思っていた存在が、人間のおなごを傍に置いていると聞けば当然の驚きだ。しかもその情婦が病で臥せっているので診てやって欲しいと頼まれた。まさに青天の霹靂。
最初は宿儺の屋敷へ出向くなど恐ろし過ぎて即座に断ったのだが、「宿儺がそれなりの報酬を出すと言っている」と万に説き伏せられ、松治は二つ返事でこれを承諾した。
理由は一つ。この男、大の銭ゲバと有名であり、それが理由で後宮付きの医師という立派な職と、愛する家族を失った過去がある。宮から高級壺を盗み、売り払おうとしたのだ。当然ながらすぐに発覚し、危うく死罪となりかけたのを万がとりなしてやったことで、松治の命は救われた。なので万からの頼み事を無下に断れないという思いも少なからずある。
「本当に大丈夫なんでしょうね。いきなり宿儺に殺されるなんてことは……」
「大丈夫だと言ったでしょ。向こうはその女を治して欲しいの。医師であるオマエをむやみに殺したりしない」
承諾したものの、未だに怯えた様子の松治を宿儺の屋敷へ案内しながら、万は呆れたように笑った。松治は「ならいいんですけど」と渋い顔でついて来る。
内心、臆病者め、と毒づいた万は、それでも上手くいったとほくそ笑む。こういう時のために医師を手の打ちに入れておいて正解だったと。
この時代、医師は貴重であり、数もそう多くない。そのほとんどが宮勤めであり、貴族の為に存在しているようなもの。庶民が診てもらえる機会などないに等しい。万は何かあった際に役に立つと思ったからこそ、罪人となった松治を助けたに過ぎなかった。
「ここよ」
小雨の降る中、松治を連れて宿儺の屋敷へ戻った万は、大きな正門の前で立ち止まった。振り返ると、すでに松治の顔色は青ざめており、どう見ても腰が引けている。一瞬で藤原の精鋭を消し飛ばした化け物と、今から対峙すると思うだけで足の震えが止まらないようだ。
万は呆れ顔のまま、盛大な溜息を吐いた。
「しっかりして、松治。ここからが大事なんだ」
「は、はい……」
「いい? 女を診察してもその診立てを宿儺側には伝えないで。伝える前に必ず先に私へ報告して」
「え……で、でも……」
「大丈夫。私も屋敷内にいるから、その辺は上手くやるわ」
「は、はあ……でも何故?」
万の考えていることが分からず、松治は不思議そうに首を傾げた。しかし万にじろりと睨まれ、ひっと亀の子ように首を窄める。
「質問はなしだ。もし出来なければ私がオマエを殺すよ」
「そ、そんな……っ」
「それが嫌なら言うとおりに。ああ、それと——」
怯える松治の方へ振り返ると、万はその綺麗な顔に不気味な笑みを張り付けた。
「診察の結果次第では、宿儺か側近に必ず嘘の病を伝えること」
「へ?」
「そこは私の判断次第で動いてもらう」
「はあ……」
つい何故、と質問しそうになったのをグっと堪えると、万は「そうねえ」と番傘をくるくると回しながら松治を見下ろした。
「もしもの時は……ただの食あたりとか、まあ季節の変わり目だし感冒と伝えるのも手だわね」
「し、しかし……万が一それが嘘とバレたら私は殺されるのでは……」
「大丈夫。彼らは医師じゃないもの。バレるはずがない。それにもしバレる時が来たとしても、その頃にはオマエも姿を消してる。もらった報酬でね」
敢えて報酬、と強調すれば、松治の青ざめた顔にほんのりと色味がつく。全くもって単純な男だ。
「それに本当に食あたりや感冒かもしれないだろう? その時は嘘にならない」
「は、はあ。あの……万さまはそのおなごの病に心当たりがおありで?」
何となく、医師の勘というやつだった。万の言動に違和感を覚え、つい質問してしまった。しかし万は含み笑いを浮かべるだけで応えようとはせず、松治もこれ以上は危険と判断し、追及するのをやめておいた。
「なら私は診察後、本当の病名を万さまに伝え、判断次第では宿儺側に嘘の病名を伝えればいいんですね?」
「呑み込みが早い男は好きよ」
万は今度こそ柔らかい笑みを浮かべ、惚けている松治の頬をするりと撫でてやった。
「ああ、いけない。もう一つ大事なこと言うのを忘れてた」
勝手口を開ける前に万は着物の合わせ目から一枚の文を取り出した。四つに畳まれたその文を、万は松治の手に持たせる。
「これを誰にも見つからないよう、その女へ渡してちょうだい。診察の間はオマエとあの子は二人きり。簡単でしょ?」
「わ、分かりました」
内容は気になったものの、もう質問しようという気すら失せていた松治は、素直にそれを受けとり、己の着物の胸元へとしまう。それを見た万は満足そうに微笑むと、勝手口の扉を開けた。
「じゃあ行きましょ。ああ、でもあまり怯えた顔をしないでね。強い人間は怯えた人間を見ると、嗜虐性が刺激されることもあるから」
「は、はいっ」
さらりと脅され、松治は慌てて姿勢を正すと、万について今か今かと医師を待ちわびる裏梅の元へ向かった。

「何……? ただの感冒だと?」
が診察を受けている間、邪魔をしないよう奥座敷で待たれていた宿儺さまは、私が診断の結果を伝えにいくと、すぐに安堵の表情を浮かべた。
「はい。医師が薬を処方して下さいました。都では感冒が流行ってるとかで」
「そうか……まあ大事ないならいい。で、その医師は?」
「報酬を渡して帰らせました。もちろん万と一緒に」
私が澄ました顔で伝えると、宿儺さまは苦笑いを浮かべて「気が利く奴だ」とお褒めの言葉を下さった。が診察を受けている間、万にべったり張り付かれてウンザリしたらしい。
「はどうしてる」
「今は薬を飲んで眠っております。微熱はありますが今のところ胃の腑のむかつきは治まってるようで」
「そうか」
宿儺さまは頷きながらも立ち上がって座敷を出て行く。そのあとを追えば、やはり行き先はのところだった。
「宿儺さま……の感冒が移ります。今、部屋へ行くのは……」
「フン。俺に感冒など移らん。何年オマエと一緒にいると思ってる?」
「そ、そうですが……」
と返しつつも、つい苦笑が洩れた。確かに出逢った当初は私も自分の術式を制御できず、周りのものを凍てつかせてばかりだった。しかし宿儺さまは凍ることも寒がることもなく、私を傍に置いて下さった。
「別に無茶なことをするつもりはない。少し寝顔を見るだけだ」
「……左様で。では私はコルリに餌を与えてきます」
「ああ、頼む。あれに何かあればが悲しむ」
宿儺さまはそう仰られると、静かな足取りでの寝所へと向かった。それを見送ったあと、言った通りコルリのいる厨脇の小部屋へと向かう。コルリとはが拾ったオオルリの雛の名だ。それもが付けたのだが、オオルリの子供だからコルリとは何とも安易な命名だと苦笑してしまう。最近は体も少し大きくなり、毛色もだいぶ大人へ近づいて来ていた。そろそろ独り立ちさせなければいけないんだろうが、その時にが素直にコルリを手放すのかどうか。
「また大泣きしそうだな……」
容易く想像出来てしまい、少々げんなりしたものの。自分の手で育てた雛が巣立つ時の淋しさは、何となく分かる気がしていた。
「ハァ……私も相当、に感化されてきたな」
頼まれたわけでもないのに雛へ餌を与えようと思った時点で、私もあの雛の存在を認めてしまっているのだと自覚する。これまで野生の生き物を食材としか見ていなかったはずなのに。
「とはいえ……オマエの餌、どうにかならないのか……」
が集めたコルリのご飯達を見下ろしつつ、口元を引きつらせる。せめて芋とか米粒などを食べてくれればいいものを。
——それより虫の方が栄養豊富なんです!
がムキになって言っていたのを思い出し、仕方ないと箸を上手く使い、それを摘まむ。少しだけ鳥肌が立ったのは内緒だ。
「何で私がこんなことを……」
などとボヤきながらも、コルリが嬉しそうに鳴くのを見て、自然と笑みが零れた。

「何だ。起きてたのか」
障子を開けると、は布団の上に置きあがり、座っていた。だが俺が声をかけた途端、驚いたように振り返る。
「あ、宿儺さま……」
「ん? どうした」
少し顔色が悪い気がして傍に座ると、の額へ手を当ててみた。やはり少しだけ体温が高い。
「まだ熱がある。横になっていろ」
「は、はい……申し訳ありません」
「いちいち謝るな」
額に置いていた手を頬へ滑らせれば、は恥ずかしそうに目を伏せた。以前ならこんな顔はしなかったのに、と苦笑が洩れる。もだいぶ普通のおなごへ近づいてきたということか。
「あ、あの……宿儺さま」
を寝かせ、肩まで布団をかけてやっていると、不意に「さっきのお医者さまはどこの方ですか」と問いかけてきた。裏梅の話では万が連れて来たという話だったが、俺は直接顔を合わせていない。万いわく、俺が顔を出して医者が怯えたら誤診するかもしれないと大げさなことを言ってきたからだ。俺の存在を都の人間がどう思っているかくらいは理解している。だからこそ医者の前には姿を見せなかった。
「万が知り合いの医者を連れてきたらしい。どうしてそんなことを聞く?」
「い、いえ……あまりに早く来て下さったので、どうしたのかと」
「裏梅が医者を探しに行こうとしたら、たまたまあの女が来たらしい。運が良かったな」
「そう、ですか……。あの……ありがとう御座います。ご迷惑をおかけして……」
は未だ申し訳なさそうに俺を見上げてくる。の家に居た頃は病になろうが、怪我をさせられようが、「家に負担をかける気か」と言われ、医者に診てもらったことはないと話してたから、余計に迷惑をかけたと思うんだろう。
「迷惑などかかっておらんわ。は何も気にせず体を休めておけ」
言いながら軽く頭を撫でてやれば、いつものように嬉しそうな笑みを浮かべる。白かった頬にも薄っすら赤みがさして、さっきよりはだいぶ艶も出てきたようだ。
「ああ、それと……今、裏梅がコルリに餌を与えているから、あれのことは心配するな」
「え……裏梅さまがコルリに?」
「ケヒッ。意外か?」
があまりに目をまん丸にするから笑って尋ねれば、は「す、少し……」と応えながら目を泳がせている。普段の裏梅はコルリの声がうるさくて、早朝に起こされるだの何だのと文句を言ってるからかもしれないが、実は誰もいないところでコルリを撫でていることを俺は知っている。あれもの影響だろうが、生き物を愛でるなど裏梅もだいぶ人間らしくなったものだ。
まあ、それは俺も同様かもしれないが。
が傍にいると、生まれながらに心へ植え付けられた憎悪という名の呪いが、痛みが、少しずつ和らいでいく気がする。そしてそれが弱さへ繋がることを、本能的に理解していた。
「ん、宿儺さま……?」
身を屈め、小さな唇に口付ける。こうすればの顔色が良くなることは分かっているが、ただ、熱が上がるのは良くないかと、すぐに唇を放した。
「早く治せ……じゃないとオマエに触れられん。元気な顔が見たいしな」
「は、はい……」
何気ない言葉でも、はすぐに涙を浮かべる。まるで特別なことだとでもいうように。それがやけに切なかった。
が笑ってくれるなら、どんなことでもしてやりたい。
そんな人間臭いことを、ふと思った自分に驚かされた夜だった。

「——随分と手際がいいものだね」
藤原邸へ戻る道中。人けのない脇道を歩いていると、不意に背後から声が聞こえて万は足を止めた。薄っすらと手に呪力を込めたのは、その人物の気配が全くしなかったからだ。振り向かずとも、相手が手練れだと分かる。
「何の話かしら」
応えながらもじわじわと形を成す武器を着物で隠し、万は振り向いた。そして息を呑む。
そこには見覚えのある人物が、嘘くさい笑みを張り付けて立っていた。
「確かオマエは……構築術師だったか。噂通りの腕前だ」
「……どうしてここに」
目の前の男から殺気は感じない。万は一旦警戒を解いて目の前の男を見つめた。本物か? と疑ったのは、頭に浮かぶ人物がおいそれと屋敷の外へ、それも人前に姿を見せるような存在ではないからだ。
しかし外見だけ見れば、彼が本物の帝だと認めるしかない。
「君と少し話がしたくてね」
「……話?」
「そう。とても大事なことなんだ」
一瞬、松治を亡き者にしたことかと思った。先ほどその現場を目撃したような言葉を投げかけられたから。しかし男は察したのか、「ああ。石ころを蹴飛ばしたくらいのことで君をどうこうする気はない」と微笑んだ。万の口元がゆっくりと弧を描く。
「話が分かる方で良かった」
言いながらも、内心では目の前の男が本物ではないと感じていた。どういうからくりかは分からないが、中身が違うのだ。万もバカではないので、そのくらいは感じ取れる。
そして万が気づいたことを、男も気づいている。その上で微笑んでいる様は、万と言えど多少は怖気が走った。
「君が気にしていることも含めて、少し私と話をしないか」
誰だって得体の知れないものは怖い。だが万は男からの誘いを自分が断らないことも、分かっていた。
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