純粋なる善は呪わしき悪①
その引き金を引いたのは、はたして誰だったのか。
善を信じる呪術師か、それとも悪の象徴と恐れられていた彼の方か。
呪術師は本当に善で、そして彼は本当に悪だったのか。
この世に善悪と言う概念がある限り、その先の答えなど見つからない。永遠に。
焦燥、憤怒、悲哀、絶望。敵意と殺意が満ち満ちていく。
永劫消えることのない、その根底にある感情の名はたった一つ。最も純粋なる邪悪――。
無間地獄に堕ちていく嘆きが、魂魄をも引き裂く衝動へと変化し膨れ上がるのを、私は確かに見た。
この世の人々はそれを――呪いと呼ぶのだ。

事の発端は二日前。の異変から始まった。
「な……何と言った?もう一度、言ってみろ」
確実に私の耳には届いていたはずが、つい阿呆のような問いかけをしてしまった。問われた方――は幼子のように拗ねた口調で「ですから……夕餉はいりませんと言いました」と、再びその言葉を口にした。
本日、二度目の驚愕が私を襲う。
この食いしん坊を茹でて捏ねて団子にしたようなおなごが、夕餉はいらない?
あまりの驚きで叫びかけた言葉が、まだ声にならないうちに乾いた音となり、すぐに喉の奥へと引き返した。何をバカな、と首を左右に振ったのは無意識だ。私は疲れているんだろう。幻聴が聞こえるなんて。
「溜息をつかないで下さい。それと幻聴じゃありません」
「……ぬ。何故そんな――」
「そういうお顔をされてたので」
「……」
ここ最近のはだいぶ鋭くなってきたように思う。人の表情を見るだけで考えていることが見抜けるくらいには。
まさか自分がと相対している時にだけ、喜怒哀楽をもろに顔で表現しているなどと気づいてもいない私は、米が焚けたのを確認して火を消し、土鍋の蓋を開けた。
「私は忙しいのだ。オマエの下らん戯言を聞いている暇はない」
「た、戯言ではありませんっ。本当に――」
と言いかけたが急に黙り込んだ。同時に「う」という呻き声。思わず振り返れば、が手で口を押えて厨を飛び出して外へ出て行く。何事かと思った。
「、どうした?」
土鍋の蓋を戻して様子を見に行くと、は裏庭の隅でしゃがんでゴホゴホと咽ている。慌てて駆け寄ると、は少し吐いたようだった。
「おい……もしや具合が悪いのか?」
軽く背中を擦ってやると、は小さく頷いた。何でも今朝から胃腑の辺りがムカムカすると言う。今はちょうど季節の変わり目。春から雨期へ変わりつつあることで、朝晩は急に冷え込んだりする。もしかしたら感冒にでもかかったか、と思った。
「なら床に入っていなくてはダメだろう。まずは体を冷やさず寝ていろ。私は宿儺さまに話してくる」
「はい……すみません」
吐き気は納まったらしいが素直に頷く。だが先ほどより顔色も悪い気がした。とりあえず寝所にを連れて行き、それから宿儺さまのいる奥座敷へ向かう。もしの容態が酷いようなら医師を呼ばなくてはならない。少し肌寒い廊下を急ぐ。その時、昼には止んだ雨が、またぽつぽつと降り出してきた。
「今夜は少し冷えそうだ」
茜色の夕日を隠す曇天を見上げて独り言ちながら、あとで厚手の布団を出してやろうと考えていた。

ふわりと暖かいものに手を包まれた気がして、わたしは少しずつ覚醒していった。布団に入ってすぐうつらうつらとしていたけど、すぐに眠ってしまったらしい。
「起こしたか」
ゆっくり目を開けた時、すぐ傍で聞き慣れた優しい声がして無意識に口元が緩む。わたしはもう一人じゃないと思える瞬間だ。
「宿儺さま……?」
「具合はどうだ」
未だ少し眠気の残る頭でその声を聞き、軽く首を振った。先ほど感じていた胃のムカつきは消えている。今は色々と世話を焼いてくれた裏梅さまのおかげで、ポカポカと体が温まっていた。
「今は平気です」
「そうか……まあ熱もそれほど高くはないようだが微熱はあるし、吐いたというのが気になる。今、医者を探させているから待っていろ」
「え……大げさです、そんなお医者さまなんて」
「大げさなどではないだろう。さっきは死人みたいな顔色をしてたと裏梅が焦っていたぞ」
「え……そ、そんなに……?」
「自覚なしか。ったく、オマエは本当に呑気な奴だ」
宿儺さまは呆れたように苦笑いを零し、それでもわたしの頭を優しく撫でてくれている。こんな風にしてもらったのは宿儺さまが初めてで、頭を撫でられることがこんなにも心地いいものだというのも初めて知った。前にそう話したら、宿儺さまもこんなことをするのはオマエが初めてだと笑ってらしたけど、それがどんなに嬉しかったか。
ゆっくり少しずつ、でも確実に。わたしの心を縛りつけていた鎖が解けていくような感覚になる。世間で言う幸がどんな感覚なのかは知らない。だけど、今わたしが感じている暖かい心地こそが、幸なのではないかと思った。
「どうした? ニヤニヤして」
無意識に頬を緩めたわたしを見て宿儺さまが笑う。そんな顔をしてたのかと思わず赤面した。
「ニ、ニヤついてなどいません……」
「ケヒっ。ニヤついておったわ。福笑いのおかめかと思ったぞ」
「お、おかめ……? わたし、あんなに目は垂れておりません」
頭に浮かんだ顔を思い出し、むうっと口を突き出せば、宿儺さまは「愉快、愉快」と一人楽しげに笑いだす。人が怒っていると言うのに宿儺さまには少しも効果がないようだ。思えば最初からそうだった。わたしが何度「喰らって下さい」と哀願しつつ無礼な行いをしたところで、軽くいなされていたように思う。どこか幼子の扱いをされているような気がしないでもない。
「ん?今度はふくれっ面になったな。何が気に喰わんのだ」
宿儺さまは相変わらず楽しそうな笑みを浮かべていた。
「そ、それは……宿儺さまがわたしを幼子のように扱うので……」
「幼子……?」
「わたしが何を言っても怒りもせず軽くいなされるし――」
「ふむ……」
思わず文句のようになってしまったと言葉を切れば、宿儺さまは指を顎に当てて軽く天井を仰ぎ見た。でもすぐに口元へ弧を描く。
「が騒いだところでキャンキャン吠える子犬にしか見えんからな」
「な……こ、子犬って……」
まだ幼子の方がマシだと思った時だった。ふと目の前が翳り、かすかに香の香りが鼻腔を掠めた瞬間、唇同士が重なる。しばし固まったものの、ちゅっと軽く啄まれた時、宿儺さまに口を吸われたのだと気づいた。
「幼子にこんなことはしないがな」
ゆっくりと唇を放した宿儺さまが意地の悪い笑みを浮かべるから、血流が一気に上昇した気がした。
「な……何を……」
「ケヒッ。今度は和りんごのように真っ赤になった。は百面相が得意なのだな」
羞恥心で言葉が上手く出ず、口をぱくぱくさせることしか出来ない。でもまたすぐにその口も宿儺さまの唇で塞がれてしまった。初めは喰われるのかと思ったこの行為も、今は不思議と照れ臭い思いが過ぎる。心臓が急に早鐘を打ち出すせいだ。宿儺さまに触れられると、どうしようもなく心が疼く。
そのうち自然と開いた唇の隙間から柔らかい舌が滑り込み、わたしのを器用に絡めとった。こんな行為を何と呼ぶのかは知らない。けれど宿儺さまを愛おしいと認識してからは、舌同士を擦り合わせることの心地良さを知った。
くちゅり、と音をさせて舌を甘く吸われた時、勝手に鼻から抜けるような声が洩れる。でもそれを最後に唇が離れていった。
「……あまり可愛い声を出すな。我慢してるというのに」
「え……?我慢って何を――」
宿儺さまが少し拗ねたような口ぶりで言った時だった。廊下から珍しいくらいに足音をさせ、裏梅さまが来たようだ。すぐに障子の向こうから「宿儺さま!い、医者を連れて参りましたっ」という声が響く。
「え……本当に呼んだのですか」
驚いて見上げると、宿儺さまは再び呆れ顔でわたしを見下ろした。
「当たり前だ。に何かあっては困る」
「……宿儺さま」
そっと頭を撫でられ、その手の優しさに何故か喉の奥が熱くなる。
「自覚しろ。今の俺にはオマエが必要だということを」

この日、万はいつものように宿儺の屋敷へ出向いて来ていた。もちろん普段のご機嫌伺いだけではなく、一つの思惑があってのこと。
さて、どうやってあの娘をおびき出してやろうか――。
悪い笑みを浮かべつつ、小雨の降る中、番傘をくるりと回しながら大きな門扉を見上げていた、まさにその時。勝手口が乱暴に開け放たれ、そこから裏梅が飛び出して来た。いつも冷静な男が何をそんなに慌てているのか、と若干驚く。しかし、そんな顔は露ほども見せず、万は声をかけた。
「あら、裏梅じゃない」
「き、貴様、また来たのか……!」
万に気づいた裏梅は心底嫌そうに顔をしかめている。味方だといっても万が宿儺に懸想しているのが気に入らないようだ。しかし万はお構いなしに愛想のいい笑みを浮かべた。
「どうしたの?そんなに慌てて」
大方、オマエには関係ないといつも通り怒鳴られるだろう。そう思っていたのだが、この日の裏梅は違った。ハッと息を呑み、万の方へ歩いて来ると「オマエ、医者に知り合いはいるか」と唐突に尋ねてくる。それを聞いた時、万は一瞬だけ宿儺の身に何かが起きたのかと焦った。藤原の人間が宿儺に毒を盛る相談をしていたのを思い出したからだ。
「ちょっと、宿儺に何かあったわけ?」
思わず詰め寄ったのだが「そんなはずないだろう」と鼻で笑われてしまった。とりあえずはホっと安堵する。
「宿儺さまではなく、の具合が悪いのだ」
「……? ああ、あの小娘か。へえ、死にそうなの?」
「なら医者は必要ないだろう。いいから応えろ。いるのか、いないのか」
揶揄する万をねめつけながら、裏梅が苛立ったように再度尋ねてきたのを見て、万の口元がかすかに緩む。これはいい機会かもしれない。そう思った。
「まあ、いないこともないけれど――」
「ではここへ連れて来い」
「まあ……それくらいならお安い御用よ」
珍しく焦る裏梅の様子を見れば、あの娘が床に伏せているのは事実のようだ。万は愛想のいい笑顔を貼り付けて承諾した。藤原に大層な医師団はいるが、さすがに自分の裏切りがバレてしまうので宿儺の屋敷へ連れてくるわけにはいかない。
だが幸い、一人だけ宿儺絡みでも診てくれそうな町医者を知っている。
「じゃあ連れてくるから待っててちょうだい。ああ、報酬は割高よ?」
「分かっている。いいから早く呼べ」
「了解」
腹の中ではほくそ笑み、裏梅にはしとやかな笑顔を見せると、万は番傘をくるくる回しながら軽い足取りで都の方へと戻って行った。
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