四話:今宵、夫婦のように




 聞いた通り、その作業場だという洋館は隣町の山間付近にひっそりと佇んでいた。何でも明治時代に建てられた家で、昔は外国人が住んでいたが、そいつが帰国して以降は長らく空き家だったらしい。
 近くの山には藤ノ木があり、香などの素材を集めるのに重宝するようで、そも、嫁にいく前はがここを借り上げ住んでたようだが、現在は旦那が買い取り作業場として維持しているということだった。

「ここか……随分と町から離れちゃいるが……これだけ藤の香りが強い場所なら鬼どもは敬遠するだろうな……」

 そこは安心して大きな屋敷を見上げると、預かった鍵で扉を開ける。外目で見た通り、中もかなり広く、年季の入った本棚やら椅子、外国風のテーブルといったもんが、まずは目についた。本人は散らかってるかも、と心配していたが、思ったよりも綺麗に片付いている。
 まずは後付けされたであろう土間三和土どまたたきで草履を脱いで上がると、開きっぱなしの扉を抜けて居間らしき場所へ上がった。ふわりと香の匂いが漂う空間の棚には、調合器具や、いくつもの容器に分けられた紫色の粉が所せましと置かれている。あとは参考書のような本が並び、まさに作業場といった感じだ。

「へえ……あいつはここに住んでたのか」

 現在は隣の港町、藤の家へ移り住んだんだろうが、この家には今もの気配が色濃く残っている気がした。数か月に一度はここを訪れると言ってたし、掃除や手入れも欠かさずしているせいかもしれない。
 夕べ、鬼を狩って戻った俺に、はこの家の住所を書いた紙と鍵をこっそりと渡してきた。

 ――朝には発つんでしょう? 私は家事を済ませて午後には出る予定なの。だから、先に行って待っていて。

 深夜、部屋へ忍んできたはそれだけ言うと戻って行った。朝は朝で見送りに出て来たのは主だけで、は家の仕事をしつつ、出かける準備をしていたようだ。

 ――ありがとう御座います。鬼狩りさま。これで安心して暮らせます。

 丁寧に頭を下げる主に僅かな罪悪感を覚えつつ。俺は藤の家を後にし、その足でここまで来た。やはりの口からきちんと真相を知りたい。そんな思いが俺の中から罪悪感というものを消し去っていく。
 虹丸には無事任務完了の旨をお館さまに伝えに行ってもらい、あとは待機するよう伝えておいた。これで緊急の任務さえ入らなければ、しばらくは邪魔も入らない。
 の匂いが残る居間で、しばし物思いに耽ったあと、居間の奥に作られた和室を見つけ、慣れ親しんだ畳に寝転がる。目を瞑れば、過去にあいつと別れた日のことが脳裏を過ぎった。

 ――じゃあ、行ってくるね。天元。

 あの日のことを、どんなに悔いたかしれない。最後に見たあいつの後ろ姿は、ずっとこの目に焼き付いたまま。亡骸もなく、ただ死んだと聞かされた時の絶望は、今も思い出せるほどにツラい出来事だった。
 生きていると信じたくとも、遺された血痕と首飾りを見るたび、生きていれば戻ってくるはずだという現実に突き当たる。何度も交差する絶望と希望の中、心身ともに疲れ果てていた頃の自分を思い出した。
 そんなことを考えていたら、気づけばうたた寝していたらしい。天元、と呼ばれ、軽く肩を揺さぶられた刺激でハッと身を起こす。隣にはが驚いた様子で座っていた。

「ご、ごめん。驚かせちゃった?」
「いや……悪い。待ってるうちに眠っちまったらしい」
「ううん。私も少し遅くなっちゃったの」
「ああ……もう日が暮れたのか」

 言われて窓の外を見れば、遠くに夕焼けが見える。午後には出て来れると言ってたが、少し遅い出発だったようだ。

「どうした? 旦那にごねられたのかよ」

 からかうように言ったつもりが図星だったらしい。は気まずそうに視線を反らした。

「鬼がいなくなったとはいえ、今日すぐに発たなくても、と言われただけ。でも香の残りが少ないのは本当だし、そう言ったら分かってくれた」
「そうか……」

 藤の花をあしらった薄紫色の着物をしとやかに纏うは、俺の幼馴染でいて、あの頃とは違う大人びた笑みを浮かべている。それだけの月日が流れたのだと言われているようだった。

「手、冷えてるな……寒かっただろ」
「大丈夫。慣れてるもの」

 そっと重ねた手をするりと外した彼女は、「まずは温かいお茶でも淹れるね」と言って台所へ歩いて行く。それが少し淋しく思えた。昔、二人でいる時は跳ねるように歩いていた女が、今はどこの良家の娘だと言いたくなるほど、しとやかに歩く。今のは元くノ一と思えないほど、艶やかな着物が似合う女になっていた。

「お腹は空いてない? 途中で色々と買い込んできたの」
「まあ、空いてると言えば空いてるが……」

 言いながら俺も台所へ顔を出せば、が「今日は寒いから牛鍋にしようと思って」と明るい顔で振り向いた。その懐かしい笑顔に俺もつい笑みが零れる。
 本当なら今すぐにでも話を聞きたい。けど時間があると思えば、再会した時よりも心に余裕が持てた。二人で過ごすこの時間を大事にしたいと思う。
 は俺にお茶を出すと、自分は風呂を沸かしてくると、腰紐でたすき掛けをしながら家の裏手へ行ってしまった。ここへ着いてから、まだ一度も座っていない。普段から忙しくしてるんだろう。そう思わせるような慣れた動きをしている。
は風呂を沸かしたところで戻って来ると「天元がお風呂に入ってる間に夕食の用意したいから先に入ってきて」と無理やり風呂場へ連れて行く。言われるがまま、気づけば俺はアツアツの湯に浸かっていた。

「ハア……何やってんだ、俺は……」

 俺がぼけっとしてる間には一人細々と動いていたが、それが意外なほど自然で。つい昔描いていたあいつとの夫婦生活みたいだと感慨に耽っていたら、こうなっていた。俺の想像の中のよりも出来た嫁だと苦笑が洩れる。
 同時に、俺の知らない時間が今のを作ったのだと侘しい気持ちになった。もし、あんなことにならなければ、今も俺たちは一緒にいられたんだろうか。
 これまでも何度となく考えたことが、再び脳を支配していく。今更そんなことを考えても仕方がないというのに、俺も案外未練たらしい男だったようだ。
 このままだと逆上せそうだと風呂から上がり、脱衣所へ行く。そこには着替えなのか、地味な着物が用意してあった。新品のところを見れば、これも買って来たらしい。

「ったく……こんなもん買ってどうすんだ……あのバカ」

 苦笑気味に独り言ちながらも、用意されていた外国産のふわふわなタオルってやつで体を拭いて着物を羽織る。濡れた髪もタオルで拭きつつ居間へ向かえば、牛鍋のいい匂いが俺の食欲を刺激してきた。

「あ、ちょうど出来たとこなの」

 鍋を卓上に置いた小さなガスコンロへ乗せながら、がすぐにお椀やらお玉などを取りにいく。本当に働き者だなと苦笑しながら、「こりゃ美味そうだ」と卓の前に胡坐をかいた。

「あ、お酒も飲むでしょ? 熱燗つけたんだ」
「おう。つーか、それ用意したらいい加減お前も座れ。移動で疲れてんだろ」
「平気だってば。昔から丈夫なのは知ってるでしょ」

 は笑いながらあっためた徳利とお猪口を運んで来ると、それでも一通り準備を終えて落ち着いたのか、やっと隣に腰を落ち着けた。

「はい、どうぞ」
「お、おう……」

 自分で注ごうとした俺の手を制止したが徳利を持ち、お猪口へ酒を注いでくる。何となく妙な気分で照れ臭いのを堪えつつ、それを受けて酒を煽った。風呂で火照った体にむず痒い感覚が広がっていく。

「何よ、その顏」
「いや……まさかお前に酒を注いでもらう日がくるとはな」
「何それ。父親みたいな感想」

 はきょとん、とした様子で俺を見たあと、小さく吹き出した。ガラにもなく顔が熱くなる。
 
「うるせェな……こっちはずっとお前が死んだと思ってたんだ。こうして一緒にいんのもまだ妙な気分だし実感も沸かねえんだよっ」

 つい、そんな言い方をしてしまったが、はハッとしたように瞳を揺らすと、ごめん、と小さく呟いた。そこで俺も我に返り、「そんなつもりで言ったんじゃねえ」と鍋に手を伸ばす。ぐつぐつと煮えている肉は、ちょうど食べ頃のようだった。

「もう肉も野菜も煮えてるぞ、ほら」

 お椀に肉やら野菜を取り分けてやれば、が慌てて「私がやるから」と言ったが、無理やり伸ばして来た手にお椀を持たせる。

「俺はもう藤の家の客人じゃねェんだ。お前が世話焼く必要はないだろが。他人行儀なマネすんな」
「天元……」
「まあ、その……何だ。話はあとにして今は食おうぜ。俺も腹減ってんだ」

 そう言いながら先に食べ始めると、も「うん」と頷いて、鍋をつつき始めた。お互いに、しばし無言で食べることに専念する。ぐつぐつという鍋の音だけが室内に響いていた。合間に酒を注ぎ合い、それを飲む。こんなありふれたことが、今はやけに胸にしみる。
 は今、この状況を……いや、俺と再会したことをどう思ってるんだろう。どんな事情があったのかは知らないが、生きていたのに里にも戻らなかったということは、もしかしたら俺にも会いたくなかったんじゃないのか。
 そんなことをあれこれ考えていたら、いつの間にか鍋は空になっていた。それをがまた手際よく片付けていく。何か手伝おうかと言ってはみたものの。が頷くはずもなく、一人でさっさと終わらせると「お風呂いってくる」と居間を出て行く。え、と思った時には再び俺は一人で酒を飲んでいた。

「チッ……話する気あんのか? あいつは」

 とはいえ、今夜はやたらと冷える。風呂で温まりながら、俺に何をどう話せばいいのか考えたいのかもしれない。俺だって心の準備が出来てるとは言い難かった。
 敵国に間者とバレたのち、あいつがどうやって生き延びたのか。生き延びたなら何故、里へ帰って来なかったのか。どういう流れでこの町に辿り着き、他の男の嫁になったのか……。
 聞きたいことは山ほどある。

「……これじゃちっとも酔えねェな」
 
 そうボヤきながら酒を注いで一気に煽る。その時、外からかすかに雨音が聞こえてきた。

「秋雨か……どおりで冷えるわけだ」

 腰を上げ、窓を開けると途端に湿った冷たい空気が、酒で火照った頬を撫でていく。見える景色は真っ暗な山と、遠くに見える町の灯りだけ。はあの男と結ばれるまで、この家に一人で暮らしていた。それを思うと胸が軋む。

「天元……?」
「おう、出たのか――」

 声をかけられ、ふと我に返り振りむけば、そこには濡れた長い髪を下ろし、白い浴衣を着こんだ女が立っていた。かすかに息を呑んだのは、やたらと艶めかしく思えたからだ。当然だが、俺の知るよりは数倍も色気がある。そんなことですら年月を感じずにはいられなかった。

「雨が降ってきたの?」
「ああ。今夜は冷え込みそうだ」
 
言いながら窓を閉めると、は「そうね」と相槌を打ちつつ、再び座ってお猪口に酒を注いでいる。そしてふと俺を見上げた。昔のように、どこか憂いた黒目を揺らし、しかしそれを隠すように儚い笑みを口元へ乗せるクセ。
 それは変わってないんだな。

「座って。天元……ちゃんと話すから」

 俺のお猪口にも酒を注ぎ、は軽く目を伏せた。だが不意に「でもその前に……」と呟く。

「天元は……いつ里を抜けたの?」
「……お前が死んだと聞かされた数か月後には」
「それは、どうして?」
「忍びの存在意義や、意味が分からなくなったんだよ。まあ……お前が敵国へ潜入したのち、俺も生き残りをかけた戦いを強いられた。兄弟とは知らされず、殺し合ったんだ。統領である親父の命令でな」
「……そう」
「そのあとにお前のことを聞いた。心が……もう追いつかなかった。だから……里を抜け、そのあと今のお館さまと出会い、縁あって鬼殺隊に入ったっつうわけだ」

 言いながら、ふとへ視線を向けると、どこか辛そうな表情で目を反らす。その反応が少し気になった。

「それより……お前の話を聞かせろ。何があった? あの任務で」

 敵国の、それも頭目の動向を探るため、そいつの屋敷へ潜入したは、そこで最初は小間使いのような立場に納まったと書簡で報告してきた。働きながら屋敷内に詰める人数や動き、誰と会い、どんな話をしていたかなどをマメに探っていたように思う。それは後で読ませてもらったから俺も知っている。
 しかし状況が変わったのは、がある男から気に入られ、そいつの側女そばめになってからだった。最初は男の身の回りの世話を頼まれ、小間使いと同じような仕事をしていたらしい。そのうち男はを妾にしようと口説いてきたが、すぐには受けず、少しずつ相手の気を引いていったようだ。本気度が上がれば隙もできる。それは上手くいってるように思えた。

「でも私の見込みが甘かったの」

 一呼吸おいてが小さな溜息を吐き、ふと俺を見上げた。

「どうしても男とまぐ合うのが嫌で……でも男は私に夢中になっているようだったから、そこまでしなくても大丈夫だと油断した……やっぱり引きつけが甘かったんだと思う」

 ある夜、男が酔って眠りこけた際、部屋の棚にしまわれた書面などを漁っているところを、厠へ行くのに起きて来た男に見られてしまった。相手は酔っていたのでどうにか誤魔化し、その場は収まったらしいが、彼女の怪しい行動を覚えていた男は、その日からに疑いの目を向けるようになる。そして、あの日。いつもの定期報告のため、屋敷を抜け出したは、途中で男の部下から尾行されていることに気づき、咄嗟に引き返そうとした。そこへ現れたのは――。

「いつも書簡を取りに来ていた時田だった」

 思い出すのがツラいのか、は自分の両腕を抱きしめるようにしながらその名を口にした。
 時田――。それは親父の側近だった忍びで、ガキの頃は俺の上官を務めたこともある男だ。確かにの書簡の回収は時田がやっていたはず。あの時、の遺品として首飾りを持って帰ってくれたのも時田だった。だがは「違うの」とひとこと言った。

「あいつは……姿を見せた途端、まず私を尾行してきた男を殺し、私のことも殺そうとした」
「……は? 嘘だろ。あいつがお前を殺す理由が――」

 と言ったところで言葉を切る。時田が命令もされずに動く男じゃないのは俺でも分かる。となれば、奴に命令できたのは一人しかいない。

「そう。天元のお父さまは……私を天元に嫁がせる気はなかった。最初から」

 時田はそう告げると「恨みはないが」と言いながらもを斬りつけ、深い傷を負わせた。だがもあっさり殺られるほど弱い女じゃない。どうにか致命傷を避け、とりあえずは潜入していた国の領土まで逃げ切ったようだ。

「でも時田はそれも想定済みだった。私を尾行してた男が殺されれば、例え私が生き伸びたとしても敵国に正体がバレる。逃げ帰ったところで捕まって拷問の末に殺されるだろうという算段だったんだと思う。そして……その狙いは当たった」

 深手を負ったは敵国の領土に戻ったところで拘束。時田の狙い通り、男から酷い拷問にかけられたという。しかし絶対にどこの間者なのかは明かさなかった。

「はっ。バカか、テメェ。お前を殺そうとした里の人間を何で守る必要が――」
「違う!私はあの人達を守ったんじゃない……里が攻められれば天元が前線に立つことになる……そう思ったから……」

 昔のように喰ってかかってくるの言葉に息を呑む。こいつは俺のために、酷い拷問にも耐え、何も情報を渡さなかったのか。

「……だからバカだっつうんだよ、お前は……。俺なんかのために身を犠牲にしやがって……もし攻め込まれたとしても俺が蹴散らしてやったのに」

 胸が軋む。思わずの頭を抱き寄せれば、藤の花の甘い香りが鼻を衝いた。こんなに華奢な体で痛みに耐えてくれたのかと思うと、今更ながらにそいつら全員を皆殺しにしてやりたくなる。だがを捕えていた国も確か、だいぶ前に廃れて今は跡形もないのは風の噂で聞いていた。だからこそ、がどうなったのかと後で調べても手掛かりすらつかめなかったのを思い出す。
 
 そして――親父の狙いは読めた。何故を俺の嫁にしたくなかったのか。それは俺がこいつに向けていた情のせいだろう。忍びに人間らしい"情"はいらない。ガキの頃から言われ続けてきた呪いだ。あの男はその情を断ち切ろうと、を側近に殺させると同時に、失敗した時のことを考えて敵国に正体がバレるようにも仕込んだ。任務中のくノ一が戻らなくても誰も同胞を怪しまない。何とも都合のいい話だ。
 そして……俺もまんまとあの男の話を信用し、は敵に殺されたのだと思い込まされた。

「……悪かった。俺があの時、あいつの言葉を信じることなく、遅くなっても助けに行っていれば……」

 もしかしたら、あの強者を決める戦いすら、親父の計画の内だったのかもしれない。兄弟たちとやり合えば、当然無傷では済まない。怪我で俺が動けないうちにを殺し、簡単には救い出せないよう仕向けた気さえしてくる。

「いいよ……あの頃の私たちは統領の言葉は絶対。巧妙に練られた計画だったなら見抜けなくて当たり前だし、敵国に捕まった時点で助けは来ないと思ってたから」

 は涙をためた瞳で微笑んだ。その後、拷問を受けはしたものの、やはり男はこいつに惚れた弱みなのか、自分の妾になれば許してやると言ってきたようだ。そこで誘いに乗るふりをして男を殺し、敵国から脱出したという。
 そこまで聞いて合点がいく。脱出できてもが里に戻ってこなかった理由。戻ってこなかったんじゃない。戻れなかったのだと。

「里に戻れば人知れず殺されるだろうと思った。だから……色んな場所を転々として、数年前この町に」
「そうか……でもどうにか俺にだけでも知らせてくれりゃ……」

 と言ったところで、は静かに首を振った。

「本当はね。少しした後、変装して様子を見に里へ行ったの。もしかしたら天元は私を待ってるんじゃないかと思って……でも天元は里を抜けたあとだった……」

 そこでは言葉を切った。その様子から、全て知っているのだと悟った。俺が、誰を連れて里を抜けたのかを。

「雛鶴さんとまきおさん。それに……」
「須磨だ」
「……そっか。須磨ちゃんだったんだ」

 里のくノ一はそれほど多くはないから、全員が顔見知り。当然のことながら、三人の嫁ともガキの頃から知っている。

「みんな、元気?」
「……ああ。まあな」
「そう……」

 寂しげに微笑むはどこか頼りなげで、昔の強気な顔は鳴りを潜めていたはずだった。けれど、不意に俺を見上げた瞳には、見る見るうちに大粒の涙が溢れて、なのに怒りの熱を灯しながら睨みつけてくる。細い腕が、どん、と俺の胸を叩いた。

「……んで……何で待っててくれなかったの……」
……」
「何で……何でよ……っ!」

 こいつに起こったこと。俺に起こったこと。歯車を狂わせた過去に起きたこと全て。全てが憎いと思った。その憎しみを抱えたまま、俺の胸を何度も叩くを抱きしめる。壊してしまいそうなほど、薄い背中がしなるほどに。

「悪かった……」

 言い訳など言えるはずもない。この言葉が全てで、俺には謝ることしか出来ない。
 あの時、信じてこいつを待っていたなら、今とは違った未来があったんだろうか。
 嘘つきと罵りながらも、俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくるを見ていたら、俺まで泣きたくなった。ったく、ガラじゃないってのに。

「……天元」
「ん……?」

 散々泣いたあと、がぽつりと俺の名を呼ぶ。胡坐をかいた足の間に抱え込んだをふと見下ろせば、涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔で見上げてきた。

「今夜だけでいい……」
「うん?」
「私を……天元のお嫁さんにして」

 真剣な眼差しを見ていたら、何をバカなことを、とは返せなかった。いや、きっと俺もそうしたいと、心のどこかで思っていた気がする。
 返事をする代わり、昔と同じようにの唇を塞ぐ。その瞬間、脳裏に過去の記憶が一気に流れ込み、あとは野暮な言葉などいらなかった。


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