一話:後朝きぬぎぬの別れ




 その射干玉ぬばたまのような黒目と目が合った時――心臓が止まるかと思った。
 
 
 大昔、まだ3人の嫁を娶る前のこと。俺には心底惚れた女がいた。
 彼女も同じ里の忍びで、将来有望とされるくノ一見習い。まァ有り体に言やァ幼馴染というやつだ。
 名は。華奢な体ではあるが、幼い頃から鍛え抜かれた肉体はしなやかで柔軟性があり、訓練での組手では攻撃を当てるのも一苦労。音もなく移動する様はまるで猫のようだった。

「あやつなら将来は優秀なくノ一になろう。器量も里の中では一番だしな」

 大人達も口々に言うほど、は忍びとしての才能と、女としての美貌を幼い頃から持っていた。
 いつか時がくれば、俺の嫁の一人として確実に選ばれるはずの女。
 そう、信じて疑わなかった。
 だが時として運命は思いがけない方向へ捻じ曲がるものだ。時代が流れ、忍びの力は少しずつ世界から不要になっていく。同胞達はそれぞれ己の道を決め始め、警察や軍の諜報機関へと流れて行った。

「みんな……いなくなっちゃったね」

 ある時、が寂しげに呟いた。一緒に鍛錬していた奴らが時代を読み、自らの将来を決めるのは悪いことじゃない。だが俺やの家は別だった。忍びという職務にしがみつき、今一度忍びが暗躍する世を守ろうと必死だった。歴史のある家系だからこそ、最後まで忍びで在れという固定観念に囚われ過ぎていたんだろう。要するに……阿呆なのだ。
 なのにガキだった俺たちは、その阿呆な大人たちに逆らうという考えがまだまだ持てなかった。物心がついた時から忍びとしての心構えを解かれ続けていたのだから仕方がない。今、考えればちょっとした洗脳だった気もする。

「天元はいなくならないでね」
「当たり前だろ。お前を置いてどこに行くってんだよ」

 泣きそうな顔で微笑むを安心させたくて、俺はあいつにそう言った。本心だった。

「約束」

 そう言いながら小指を差し出す彼女の目は殊の外真剣で、俺は「ガキかよ」と笑いながらも力強く小さな小指に自分のを絡めた。は嬉しそうに頬を緩めていたのを思い出す。あの時、俺たちは初めて口づけを交わした。

「わたし、くノ一として任務に就く前に天元のお嫁さんになりたいな……」

 何度か唇を合わせたあと、俺の腕の中であいつがぽつりと呟いた。その言葉の意味を理解出来るだけに、俺もそうであって欲しいと細い体をきつく抱きしめたのは、くノ一がどういう扱いをされるのか嫌と言うほど分かっているからだ。
 
「お前は俺の嫁になる女だ。だから、これを肌身離さず持ってろ」

 彼女の不安を和らげるため、俺はに緑色の輝石きせきを渡した。以前、他国で見つけた美しい石を、俺が首飾りにしたやつだ。

「え、いいの……?これ天元の大事なものでしょ。派手なのが気に入ったからお守りだって言ってたじゃない」
「いいんだよ。俺よりお前に似合う」

 そう言うとは照れ臭そうに「ありがとう、天元」と微笑んでくれた。こんなものでの心が少しでも癒されるならお安いもんだ。

「あんなもん、ただの作業だと思え」
「うん……」
 
 女の身で忍びという任務に就くというのは、敵の情報を深く探るため、時には体を武器に標的へ近づくこともある。当然ながら、相手にバレずに情報を手にする為には実際にまぐ合うことも必須になってくる。その為の訓練を、くノ一はしなければならない。
 他のくノ一たちより少し遅い、14の歳で初潮を迎えたも例外ではなく。それを迎えたは、親から房中術の訓練に入ることを示唆されていた。
 
 最悪だったのは、その指南役に俺の兄貴が選ばれたことだ。
 先の理由で里から離れた者が多く、他に適任となるいい年頃の男がいなかったせいだろう。
そもそも忍びたる者、誰よりも強くなければいけないという宇随家の特殊な環境のせいなのか。俺の兄弟たちも厳しい訓練に耐えかね、幼い頃に三人は亡くなっている。適した年頃の男はすでに上忍となっている残りの兄弟くらいだった。それでも父に反論し、抗議はしたものの。

 「15になればお前の嫁の一人にを、と考えてはいるが、指南役にはあやつが適任だ」

 と、俺の言い分はあっさり突っぱねられた。
 せめて知らない男だったなら俺もまだ諦められたんだろうが、惚れた女の初めての男が自分の兄弟というのは酷だと思った。

「いいか、天元。くノ一など子をもうけるための道具にすぎん。情を移すな」
 
 耳にタコができるくらい言われてきた言葉だ。でも俺はあの時、初めてその意味を理解したんだと思う。不快極まりない苛立ちに襲われた。

「仕方ないよ、天元。わたし達は忍び。掟は絶対で統領の命令も絶対だもん……」

 俺が少し先に15になり、も15歳を迎える前夜。彼女といつものように隠れ家として使っていた小屋で密会した時、あいつは全てを諦めたような顔で呟いた。この頃、すでに俺の嫁候補の一人にはが選ばれ、その婚姻の儀は俺が宇随家の最期の試練を終えた後で行われることになっていた。強い者だけが生き残る実戦訓練だ。でもの房中術の訓練は明日に迫っている。どうしても婚儀には間に合わない。
 15でくノ一と認められるための試練はにもあるからだ。
 は明日、房中術の訓練を終えたあとで初めての任務に就かされることになっていた。その功績が認められれば、晴れてくノ一に昇格し、その後に婚約者――つまり俺との婚儀を迎えられる。それは代々、優秀なくノ一を輩出してきた家の伝統でもある。
 分かっている。俺とはまだガキで、大人の決めた下らない掟を嫌でも守らされるだけに過ぎない小さな存在だということは。忍びとは本来、誰かの道具でしかない。
 だけど一人の男として……惚れてる女を他の男、それも自分の兄に抱かせるのは、この身を裂かれるくらいにツラい。

「天元……」
「ん?」
「わたし、頑張って任務を成功させて……必ず天元のお嫁さんになるからね」
「……おう」

 明るい顔を見せるに、俺も普段通りの返しをする。だけど不意に目を伏せると、はそっと俺の肩へ寄り掛かった。

「ひとつ……天元にお願いしてもいい?」
「何だよ、改まって。らしくねェ」
「明日の訓練を終えても……わたしのこと嫌いにならないでね……」
「……なるわきゃねえだろ。下らねえこと言ってんじゃねえよ。お前らしくもない」

 ハッと息を呑み、それからいつものように華奢な肩を抱き寄せた。出来ることなら今すぐこの腕に抱いて、の全部を俺だけのもんにしたい。でも婚儀前の性交は掟で禁じられている。もし明日の訓練中に密通したことがバレれば、俺たちの婚儀じたいなくなってしまうかもしれない。そう思うと抱きしめてやることしか出来なかった。
 でも、俺はこの日のことを後々後悔することになる。
 15となった日の夜、房中術の訓練を無事に終えたは、数日後には例の任務へ出かけて行った。

「じゃあ行ってくるね、天元」

 あの日の朝、は普段と変わらず笑っていた。一人前の女になったといったところで、あいつは何も変わらない。俺の知ってる純真無垢な彼女のままだ。
 いつものように明るい笑顔を浮かべて、見送りに行った俺に大きくを手を振りながら、は森の中へ姿を消した。
 この任務が終われば、俺とあいつは夫婦になれる――。
 そう信じて俺はいつまでもを見送っていた。
 彼女の笑顔を見るのは、それが最後になることも知らずに。
 
 その日から二日後。俺も父から言われた通り、強者を決める訓練で五人の男たちと殺し合いをさせられた。相手が何者なのかまでは教えられず、ただ「生きたければ殺せ」と命じられていただけ。当然、との約束を守るためにも死ぬわけにはいかない。
 互いに忍びの装束を纏い、覆面をしているせいで顔すら分からない。相手はかなりの使い手であったものの、どうにか二人殺したところで、父に「合格だ」と告げられた。同時に今、俺が殺した相手が誰だったのかも――。
 俺が殺した二人は兄弟だった。俺と同様生き残った弟も二人を殺したらしいが、それも俺たちの兄弟だった。
 父は俺たち兄弟に殺し合いをさせたのだ。互いに相手が誰なのかも一切告げず、ただ「殺せ」と命じて。強者しかいらないという理不尽な理由のために。
 
 実の兄弟をこの手にかけたことで、俺は動揺し、当然のことながら自責の念に苛まれた。何故、どうして。父のことや、忍びという存在そのものに初めて不信感を持った。
 だがそんな思いを抱えていたのは俺だけで、同じように兄弟を殺した弟には後悔のこの字すらなかったようだ。動揺する俺に向かい「自責の念など感じる方がおかしい」と言いのけた時は、二つ下の弟がまるで父の複写のようにも思えたもんだった。
 それでも。そばにがいてくれたなら、俺の心はまだ救われたかもしれない。なのに現実はあまりに残酷だった。

 ――からの書簡が途絶えた。

 次の日。そんな話を耳にして、更なる無情が俺を憤らせた。

「助けに行く? 何をバカな……昨日の傷も治ってないというのに。生き残りはしたが重症だ。お前もそれくらい分かってるだろう。それに……もう手遅れだ。は死んだと先ほど時田から報せがあった」

 時田は父の側近での書簡を回収しに行っていた忍びだ。

「な……バカ言うな! あいつが死ぬわけねえだろ!」

 そう噛みつく俺に父はある物を差し出した。それはが定期的に送って来ていた書簡と同じ封筒と、あいつが大事にしていた――

「これは……」
「書簡を回収しに向かった時田が見つけた。そこには大量の血痕と首飾り。その封筒はいつも書簡を隠すのに使っていた大木の近くに落ちていたそうだ。は素性を疑われていたようだな。正体がバレる前に脱出したいと文に書き、いつもの場所へ向かった。しかし、それを入れようとしたところで尾行してきた敵に正体がバレて殺されたんだろう。その首飾りは知らんがが常に身に付けていたものだろうと時田が話していた」

 俺の手のひらへ乗せられたもの。それは血の付いた書簡と、そして俺がに送った輝石の首飾り。美しい輝きは乾いた血痕に覆われ光を失っていた。

「嘘だ……あいつは……まだ生きてる! 俺に行かせてくれ!」
「ならん! その傷で動けば死ぬぞ! そもそもは任務に失敗した。例え生きていたとしてもお前との縁談はなくなる娘だ。お前には別のくノ一を嫁がせる――」

 そのあとのことは正直あまり記憶はない。父を罵倒し、制止を振り切って飛び出したところまでは覚えてるが、が向かったという敵国付近で倒れているところを、追って来た同胞に拘束されたらしい。気づけば牢獄に監禁されていた。
 何の準備もせず、大怪我を負った体を引きずり、飲まず食わずで山を越えた俺の体は衰弱しきっていたようだ。すでに動ける状態ではなく、を助けに行くことも出来ず、ただ時間だけが過ぎていった。
 結局、ひと月後。怪我が完治したのを機に解放された俺は、心身共に疲れ果てていた。
 兄弟をこの手にかけた罪。惚れた女を救えなかった罪。その二つの重みがずしりと俺に圧し掛かる。今まで信じてきたもの全てが粉々に砕け散った気分だった。
 予定通り父の選んだくノ一三人と祝言を上げたものの。俺の心に生まれた傷も疑心も消えないまま。
 どうしても忍びとして生きていくことへの意味を見出せず、また疑問を拭いきれずに悩みに悩んだ結果――。
 もらったばかりの嫁を連れて生まれ育った里を抜けることにした。

「私たちは天元さまにどこまでもついてゆきます」

 政略結婚だったにも関わらず、三人の嫁はできた女たちで。いつしか虚無だった俺の心を静かに暖かく照らしてくれる存在になっていた。
 本当なら、この中のひとりはだったはずなのに。
 そんな思いを心の奥底へしまい込んで鍵をかけたのは、こんな俺と家族になってくれた嫁たちを、守ってやれなかったあいつの代わりに生涯守り抜くと決めたからだ。どう足掻いても過去は変えられない。ならば、そばにいてくれる嫁たちを大切にし、前だけを向いて生きていく。そう誓った。


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