
夏休み。二度目の合同合宿で、驚愕の事態が待ち受けていた。
これまで音駒に女子マネという存在はなく、俺たち烏野には潔子さんという女神がいる。
当然のことながら、潔子さんキッカケで親しくなった音駒の山本猛虎には、毎回その件でマウントをとってきた。別に意地悪とかじゃなく、ただただ潔子さんを自慢したいという思いだけで。
なのに……なのにだ。
これは一体全体どういうことだ――?
「よぉ、龍之介。どうした?惚けた顔して」
合宿先となる森然高校へ到着した際、俺たちを出迎えたのは音駒の主将。そして何故かその隣には見たこともない女の子が立っていた。
しかも音駒の赤いジャージを着てるということは……いや、そんなことよりも!
超絶可愛いんだが?!
どこのアイドルを連れてきたのかと思った。
そして俺が唖然としてるところへやってきたのが、山本猛虎だ。いつもとは違い、めちゃくちゃ顏がどやっている。
「ほ、惚けてねえ!つーか、それより……あ、あのお前んとこの主将にくっついてるスーパープリチーガールはまさか――」
「おー。あれは音駒の女子マネだ」
「な、なにぃぃ?!い、いつの間にっ?」
「ま、俺らも本気を出せば、ざっとこんなもんよ」
「ぐ……っ」
何だろう。物凄く悔しい……否!
プリチーさで言えば潔子さんだって負けてはいない!彼女の美しさは誰にも引けをとらな――!
「あの、初めまして」
「……っ!」
脳内で炸裂していた潔子さん上げの思考が一時遮断された。
俺の視界にさっきの超絶可愛いシティガールが現れたからだ。目の前で見ると、彼女の可愛さは犯罪級だった。
「は、はは初めまし、まして……」
「私、音駒の女子マネやることになったといいます。今回も宜しくお願いしますね」
「よ、よよよよ宜しく……(可愛い上にすげーいい子!)」
にっこり微笑まれた瞬間、俺の心臓がヤバい音を立てた。耳元で綺麗な歌声を奏でられたような心地よさ。え、天使か?
だがしかし。すぐにハッと我に返る。
いかん、いかん!惑わされるな、田中龍之介!俺には潔子さんという心の恋人が……!
「あの……田中くん、ですよね」
「へ……?」
「虎ちゃんから聞いてます。いつもお世話になってるようで」
「と……虎、ちゃん……?」
ついに耳がおかしくなったのかと思うくらいの衝撃。見れば彼女の後ろで山本猛虎が更にどや顔をしていた。
まさか、コイツのカノ……ッ(言いたくない)
「あ、私、虎ちゃんと同じクラスで一年の頃から仲がいいんです」
「そ……そう……なんスね……はは、ははは」
そこは若干ホっとしつつ。それでもこれほど可愛い子から「虎ちゃん」などと呼ばれているあいつが羨ま……もとい。憎たらしく思えた。
俺は潔子さんに苗字でしか呼ばれたことないのに!俺も「龍ちゃん」って呼ばれたい!
「おい、。あんま他の学校のヤツに近づくなって」
「あ……黒尾先輩」
「……ぬ?」
そこへ音駒の主将がやって来た。若干不機嫌そうな目を俺に向け、彼女の肩を抱き寄せている。そのさり気ないボディタッチを見て、俺の眼球がゴムのように前へ伸びた気がした。
ってか、今……彼女を呼び捨てにしなかったか?
「ごめんね、黒尾先輩。虎ちゃんが迷惑かけてるんじゃないかと思って」
「そんなの気にしないでお前は俺のそばにいればいいんだよ。合宿に参加する際の約束だろ」
「うん。あ、じゃあ……田中くん、また後で」
彼女は可愛い笑顔を俺に向けると、音駒の主将に肩を抱かれて歩いて行く。
え、もしや彼女はあいつの……。
そう思いながら虎を見ると、奴は俺から視線を反らし、明後日の方を見上げていた。
あんなに自慢げだったわりに、彼女とこいつはただのクラスメートってだけの関係らしい。
ただ、こいつの態度を見ていると片思いマスターの俺のアンテナがビビっと反応した。
「おい、虎」
「な、何だよ」
「お前、もしかして彼女のこと……」
「……みなまでいうな」
「虎……」
その一言と俯いたこいつの顔を見て全てを察した俺は、ガシっと肩を抱いてやった。
「龍之介……」
「お前の気持ちは痛いほど分かる……ツラいよな、片思いは」
「……」
虎は涙目で俺を見つめた。ここで俺たちの友情がまたいっそう深く――。
「いや。今はすっぱり諦めた。黒尾さんには敵わねえし……それに何より俺は今、潔子さん一筋――」
「あぁ?!潔子さんは俺たち烏野ボーイズの女神だ、コラァ!」
「はぁぁ?!想うだけなら勝手だろがぃ!」
俺たちの友情はあっけなく終わりをつげ、不毛な言い争いが勃発。
そこへ大地さんと、近くにいた音駒のリベロ、夜久さんがすっ飛んできて、俺と虎は互いにゲンコツの刑に処されてしまった。
恥も外聞もない。この日の俺は、バレー以外で初めて最上級の敗北感を味わい、彼女へ本気の土下座をした。こんなマネをしたのも初めてだ。
その理由とは――。
「頼む!女子が増えてたんだ!」
「……へ?女子?」
俺の必死さ、熱量が強すぎたのか。がばりと顏を上げてみれば、彼女――クラスメートのはドン引きの眼差しで俺を見下ろしていた。彼女の隣にいる部の先輩で、彼女の彼氏もまた然り。
「虎ちゃん、何の話……?女子が増えてたって――」
「烏野高校の女子マネだよ。これは由々しき事態……音駒高校男子バレー部にとってはなっ」
「あー。この前、例の合同合宿に初めて参加したっていう高校だ。前も一度練習試合したんだよね、黒尾先輩」
「ああ。そういや……確かにこの前来た時は女子マネ増えてたな」
そう応えながら、黒尾さんはふと意味深な笑みを俺に向けた。やっと俺が土下座をしている意味を理解したようだ。でものやつはその話を聞いた途端、不安そうな顔で黒尾さんを見上げた。
「え、もしかして黒尾先輩、その子のこと可愛いとか思ったり……」
「あ?俺?まさか。俺は以外の子は目に入らねえの」
「ほんと?良かったぁ」
「……」
いつものイチャつきが始まった。黒尾さんはの頭を優しく撫でながら蕩けるような目で見つめてるし、空気が甘ったるいったらない。
それを目の前で見せられてる俺の顏は、釣り竿に引っかかった魚の口みたいにどんどん引きつっていく。
出来ればこの場から立ち去りたい。でもここはぐっと我慢の子だ。
次、夏休みに行われる合同合宿第二弾に……是非とも、このをウチの部の即席マネージャーとして参加させたいからだ。
何故なら……は音駒でも一、二を争うくらいの……いや。一番の美貌を持っている!
少し垂れ気味な大きな瞳と、ぷっくりした唇。そして全バレー男子が本能できゅん、としてしまうであろう小柄な身長。※彼の個人的な感想です。
高すぎず低すぎず、耳に心地よく響く可愛らしい声。ついでに言えば、いつも彼女からは淡い花の匂いがする。
その辺のアイドルなんか目じゃないほどに、キラキラオーラがあるような子だった。
あまりの可愛さに初めて会った時は全身に電流が流れたのは言うまでもなく、実のところ入学当初は俺も一時こいつに惚れていた時期がある!
クラスも同じ、席も隣なんてまさに運命だと思ったし、可愛いのを鼻にかけないシャイで素直な性格。
女子と話すのが苦手な俺すら気さくに話せる、明るい性格なのも好感が持てた。
俺でも気軽に話せる女子がいる!やっぱりこれは運命なのだ。
そう確信した俺は、その勢いで遠回しにバレー部のマネージャーにも誘ってみた。
それが――俺にとって唯一最大のミスだとも知らずに。
俺の話を聞いてバレーに興味を持ったが部活を見学しに来た時。
俺と同様、彼女に一目惚れをした人物がいた。それが、現バレー部の主将を務める黒尾さんだ。
常に飄々としていて、それほど恋バナにも女子の話題にも興味を示さなかったバレー馬鹿の黒尾さんの口から、まさかの『あの子、誰?すげえタイプ……』発言が飛び出た時は、バレー部一同、その場で全員がひっくり返ったくらいだ。
どうやら黒尾さんは美人系より、のようなちんまりとした妹キャラが好みだったらしい。誤算だった……。
最悪なのはそれだけじゃない。もまた、高身長で大人びた一面もある黒尾さんが好みのど真ん中だったようだ。
そんな二人が出会ってしまえば、恋の花が見事に満開。その瞬間、俺の恋は呆気なく散ってしまった。
いや、それでも俺には新たな出会いがあった。
烏野高校のバレー部マネージャー。清水潔子さんだ。あまりの美人さんで、彼女と会った時は体中に電流が走ってしまった。(またかよ)
しかし彼女は美人過ぎる上に無口ときている。よって、俺なんかが気さくに話しかけられるような女性ではない。
だから合同合宿という場で遠目から彼女の姿を見られるだけでも、俺は心から満足していた。
だがしかし――俺が今、悩んでいることと、それは別問題。
俺達の部に烏野のような女子マネがいない、という屈辱的な現状をどうにか打破したいと思ったのは、烏野に二人目の女子マネが入ったことを知ってしまったからだ。
そこで、このむさくるしい音駒の男子バレー部、という不本意なイメージを払拭する為、恥を忍んでに頭を下げているというわけだ。
「頼む、!夏休みの長期合宿にマネージャーとして参加してくれ!」
「え……わたし?」
黒尾さんとイチャイチャしていたは、話の趣旨をやっと理解したのか、ぎょっとした様子で首を傾げている。
「お前だって夏休みの中、一週間も黒尾さんと会えないのは嫌だろ?」
「おい、山本。俺をダシに使うなって」
「でも黒尾さんだって寂しいくせに」
「……それは、まあ……」
俺の指摘を受け、黒尾さんは苦笑交じりで頭を掻いている。黒尾さんだって本音はにマネージャーをしてもらいたいはずなんだ。付き合う前はさり気なく勧誘してたくらいだし。
でも付き合いだした途端、に「マネージャーはしないでいい」と言ったらしい。俺はその理由も分かってるから、こうして頼むことも一度は迷った。
だが今回、夏休みの一週間だけなら……と藁にも縋る思いで頼むことにしたのだ。
「そりゃわたしも黒尾先輩が合宿に行っちゃうのは寂しいけど……」
「だろ?」
「でも何で虎ちゃんはそこまでして女子マネして欲しいの?」
「……いい質問だ」
と、ついドヤ顔で言ってみる。黒尾さんは理由に感づいているから、すでに呆れ顔で肩を竦めていた。
「やっぱり試合に勝つだけじゃなく!超絶可愛らしい女子マネがいる、というステータスが欲しいじゃねえか」
「は?」
「女子マネの件で毎回どやってくる烏野の奴らに、音駒にも可愛い子はいるんだぞ、と見せつけるのさ!」
両拳を握り締め、天井へ向けて突きだす。一度くらいは俺も龍之介にどやってやりたい。ただそれだけ。
分かってくれたのか、いないのか。は困惑気味に隣の黒尾さんを見上げている。黒尾さんに至っては半目で俺を見ながら溜息を吐いていた。
「えっと……話は何となく分かったけど……それわたしでいいの?」
「以外、超絶可愛い子はいないだろ」
「え、黒尾先輩、褒めすぎだよ……」
俺が言う前に何故か黒尾さんがをその気にさせている。
にゾッコン惚れこんでいる黒尾さんのことだ。そういう意味では負けたくないという俺の気持ちを理解してくれたらしい。
「でも、いいの?わたしが合宿に参加なんて……マネージャーでもないのに」
「人手不足だし、その辺は監督もコーチも助かるから許してくれんだろ。まあ俺としては……男だらけの合宿にを連れていくのは超心配なんだけど――」
と言いつつ、黒尾さんはジト目で俺を見下ろしたものの、不意にニカッと笑みを浮かべた。
「ま、今回は山本の土下座に免じて、を連れていくの許可してやるよ」
「……あ、あざーす!!」
と頭を下げてみたものの。黒尾さんはただ可愛い可愛い彼女を、他の連中に自慢したいだけなのかもしれない。
目の前で再びイチャつきだした二人を見ながら、ふと思った俺だった。
「あれ、あの子……」
東京で二度目の合同合宿二日目。森然高校の父兄からスイカの差し入れがあった。体育館の裏に集まり、各校のマネージャーが切り分けたスイカを、合宿に参加している生徒全員で食べる。
30度を超える暑さの中で食べたスイカは物凄く美味しくて、おれは一つじゃ全然足りないからお代わりしたくらいだ。
そして食べたあとはベタつく手を洗いに、水道のある体育館裏の奥へ向かう。でもそこには先客がいた。
赤いジャージを脱いで顔を洗っている女の子。あれは音駒のバレー部に入ったとかいうマネージャーの子だ。
名前は……さん。田中さんやノヤさんが「あの子、すっげー可愛いよな!」と騒いでたのを思い出す。
確かにおれから見てもめちゃくちゃ可愛い人だと思った。
おれより一つ先輩らしいけど、清水先輩のような大人っぽい感じじゃなく、どこか親しみやすさのあるほんわかした空気を感じる。
思わず声をかけて挨拶しようとしたけど、あいにく彼女は一人じゃなかった。
「ほら、タオル」
「あ、ありがとう、黒尾先輩」
彼女と一緒にいたのは、さっきまでおれ達と一緒にスイカを食べてた音駒の主将、黒尾さんだった。いつの間にかみんなの輪から抜け出してたようだ。
確か研磨の幼馴染で、あの研磨にバレーをやらせた張本人。
普段から何を考えてるか分かりにくい人だけど、試合中は更に飄々さが増して、目の前に立たれると何か……怖い。
あの影山ですら普通の速攻はこの人に通用しないと警戒してたっけ。
だけど……今の黒尾さんはいつもと雰囲気が違う気がする。普段より表情が柔らかいせいだ。
「疲れてない?」
「うん、平気!初めての経験だし凄く楽しい」
「俺はヒヤヒヤだけどなー。他の学校の男がに話しかけるたび」
「え……そ、そうなの……?」
「そうなのー。っていうかお前も自分が人より目立つって自覚しなさい」
「そ、そんなこと言われたって……別にメイクも何もしてないよ?」
「そういう意味じゃねえから」
「ひゃ。髪ぐちゃぐちゃになっちゃう」
……ん?何だ、この甘い感じの会話。部活の先輩後輩とは違う、ある種の独特な空気が流れてるような……。
黒尾さんはさんの髪をくしゃりと撫でて乱したことを怒られても、嬉しそうな笑みを向けてる。彼女を見る目がものすごく……優しい。
何だろう。凄く大切な人を見るような、そんな甘ったるい目をしてる。
え、あれ。あの二人ってもしかして……?
そう思った時だった。身長の高い黒尾さんが身を屈めたと思った瞬間、さんの唇に――。
「……キ……っ」
思わず声を上げそうになったから、慌てて口を手で塞ぐ。ついでにくるりと方向転換したのは、初めて他人のそういう行為を目にしてしまって、本能的に見ちゃだめだと焦ったからだ。火が噴きでてんのかと思うくらい顏が熱い。心臓もバクバク鳴ってて、口から出そうとはまさにこのことだ。
少し奥まってる向こうからは壁が邪魔になっておれのことには気づいてないだろうし、バレてはいないはず。だけど、この場にいるのはまずいと思った。
(ふ、二人はやっぱり付き合ってるんだ……)
足早に元来た道を戻りながら、未だ燃えるように熱い顔を覆う。他人の色恋沙汰なんて免疫がないおれからすれば、チュウのシーンは18禁以外のなにものでもない。まだドキドキしてるくらい恥ずかしい。
だけど……と、ふと立ち止まって軽く深呼吸をした。
好きな子が目の前にいたら、あの冷静を絵に描いたような黒尾さんでもあんな顔をするんだ、なんて少しだけ驚く。
大事そうに彼女の頭を撫でて、あんなに優しい眼差しを向けてた。
ああ、さんのこと本気で好きなんだなぁ、と一目で分かるような顔だった。
それにチュウをする時の目が大人びてて、何かちょっとエロか――。
「チビちゃん」
「――っ!」
唐突にぽん、と肩を叩かれた瞬間、びくぅ!と肩が飛び上がった。同時にずしっと肩に重みを感じて、視界の外から今、頭の中に浮かんでた人の顏がフレームインしてくる。
「ダメじゃん。盗み見しちゃー」
「う……」
耳元での低音にぞくりとする。顏が、ものすごく近い。
「す、すみませ……み、見る気はなかったんですぅ……」
「ふぅん。ま、見られちゃったもんは仕方ねえけど――」
と言いつつ、黒尾さんは視線をちらりと上げたおれを見下ろしながら、にっこり微笑んだ。何か怖い。
「みんなには内緒な?」
「へ?」
「さすがに他校の敷地内でちゅーしてたのバレると気まずいし……まあ俺はいいけどは女の子だからさ」
「は……はぃ」
どうやら口止めは彼女の為らしい。優しい彼氏なんだな、と意外な感じがして驚いた。
とりあえず、こくこくと何度も頷くと黒尾さんは軽く笑ったようだった。おれの肩から黒尾さんの手が放れていってホっと息を吐く。
「あ、あの彼女……さんは?」
「ん?あー。何かさっきスイカ切った時、ついでに指を少し切ってたみたいだから保健室行かせた」
「そ、そうなんですか……着いて行かなくていいんですか?」
ふと顔を上げると、黒尾さんは苦笑気味に肩を竦めていた。
「一緒に行こうとしたよ?でもさぁ、もうすぐ練習再開の時間だから黒尾先輩は早く戻ってーだと。いい子だろ?」
「はい……黒尾さんは凄く好きなんですね、彼女のこと」
「ん?」
何気なく、ぽろりと言ってしまったことに気づいてハッと口を押える。だけど黒尾さんはまた苦笑しながら「うん、大好きー」と堂々惚気てきたから、こっちが照れてしまった。
「俺さぁ、が可愛くて仕方ねえの。だからーチビちゃんも近づくなよ?」
「えっ?」
「ぶはっその顏……嘘だよ、冗談だっつーの」
そんなことしません、と言おうとしたけど、どうやらからかわれただけのようだ。
ただ、こんな風に彼女のことを可愛いとか、大好きとか素直に言える黒尾さんが、ちょっとだけカッコいいと思ってしまった。
おれもいつか凄く好きな子が出来たとして、もし付き合えたなら、黒尾さんみたいな彼氏になりたい。
なーんて。恋愛初心者の戯言は、胸の中へしまっておこう。
「んじゃあ午後練も頑張るとしますか」
「はいっ」
大きな手にくしゃりと頭を撫でられて、張り切って返事をすれば。
黒尾さんはいつもの皮肉めいた笑みを浮かべながら、「あっち~」とボヤいて歩き出す。
体育館からは、みんなの明るい掛け声が響いてきた
高校三年の夏休み、二度目の合同合宿。山本必死の土下座で俺の彼女――が召喚された。
俺としてはと会えなくなるより、そばにいてくれた方が嬉しい、と思う反面。やはり男だらけの中へ彼女を連れて行くのは、正直オオカミの群れに子ウサギを放つ心境だった。
だから軽いウォームアップ中も、コーチとの打ち合わせ中も、つい目線はへ向いてしまう。他の学校の男どもが色めきだってる空気をビシバシ感じるせいだ。
――音駒に入ったマネちゃん、めちゃくそ可愛くね?その辺のアイドルじゃ太刀打ちできんレベル。
――だよなぁ?ちょっと話しかけてみる?懐っこそうだったし。
――確かに!あんなけ可愛いのに気さくってポイント高いべ。
男同士が集まってヒソヒソ話す声が聞こえるたび、俺の耳がピクリと動く。こういう会話を耳にしただけで、早速彼女を連れて来たことへの後悔が俺を侵食していった。例えが他校の男どもに話しかけられたとしても、そこで彼女が他の男に目移りするとかは思ってない。普段から密やかに甘やかして、可愛がって、俺なしじゃ生きていけないように深い(重い?)愛情を注いでるからだ。
心配なのは彼女の意志に関係なく、強引に口説こうとする輩がいやしないかという一点だけ。そういった事態を避けるためにも気づいた時はジロリと睨んで威嚇しておく。それだけで他校の男どもはそそくさと退散する……までがデフォルトになってきた合宿最終日。
この頃にはが俺の彼女だってことも静かに浸透してたようで――山本が威嚇しまくってくれたのもある――に話しかけよう、なんて男どもはいなくなっていた。
ただ、今度は別の問題が起きた。
合宿最終日は先生たちからの労いもあり、最後の試合が終わった後はみんなでバーベキューをやるという話になったらしい。そこで大量の買い出しを各校のマネージャーも手伝うことになったようだ。その話は当然主将の俺にも報告された。
だから練習試合後、休憩に入った時、外に出て彼女の様子を見に行った。また指でも切ってないかと心配だったからだ。それを見透かしたように研磨から「クロは過保護すぎ……」というツッコミがきたけど、過保護で何が悪いと笑って返す。が無駄にモテなきゃ俺だってこんなに――いや、モテなかったとしても好きな子のことなら、いつだって心配になる気がする。
現に――今も。
「オマエ、その首どーした?」
「え?」
森然の先生に車を出してもらって買い出しに行ってきたらしいは、他校のマネ達と仲良くバーベキューの下準備をしていた。男どもの中に放り込むのも心配だったけど、知らない女子の中に放り込むのも地味に心配だった。でも人懐っこい彼女はすっかりみんなと打ち解けてるようで、仲良く野菜を洗っている。どうやら俺の取り越し苦労だったみたいだ。
ただ、さっきまでは何ともなかったの首筋に異変を見つけて、つい尋ねてしまった。
「あ、これ?さっき宮ノ下さんや大滝さんにも突っ込まれたんだけど、多分蚊に刺されたんだと思う。凄く痒くなってきたし――」
「え、誰?」
はて?と首を傾げたのは、知らない名前を口にされたからだ。は俺の反応に気づいたのか「生川と森然のマネージャーの子だよ」と笑った。
「生川……?」
「ほらツインテールの女の子と、髪を一つに縛ったおっとり系の女の子。あと梟谷の先輩方でー」
「うーん……」
腕を組んで更に首を傾げつつ、野菜を切り出した女マネ達へ視線を向けたが、どれがどの子かさっぱり分からん。
ぶっちゃけ他校のマネージャーなんて気にしたこともないから名前や髪型を言われてもピンとこない。特にが来ている今回の合宿は、にしか意識が向いてないからなおさらだ。
そう説明すればはホッペを赤くしつつ、俺を見上げて仕方ないなぁと視線を泳がせた。ってか地味に照れんの可愛いかよ。そんな照れ方されたらちゅーしたくなるんだけど。
……と思ったが、他校のマネ達の前で出来るはずもない。それにこの前チビちゃんに目撃されてからは俺も一応その手の行為は今んとこ自粛している。
いや、そんなことより。俺のを刺した蚊の方が問題だ。出来れば俺が見つけて潰してやりたいくらいにイラっとする。よりによって首筋を刺すなんて最悪だ。これじゃまるで……
と、そこで思考を一時中断させておく。
「あーあ……見事に赤く腫れてきたな。これ、普通のやぶ蚊じゃねえだろ、多分」
「だよね……きっと痒みが酷い方の蚊かも。あれ凄く赤くなるし痒みも酷いから嫌だなあ」
この学校には何度か合宿で来てるから分かるが、この時期はやたらと虫が多い。選手の中でも誰かしらが毎回「痒い」と騒ぎ出すまでがデフォルトになってる。
だから虫よけスプレー必須な、と言っておいたのに。
「、虫よけしてなかったのかよ」
「う……ついうっかり……せっかく黒尾先輩と買いに行ったのに」
「ったく……んじゃあ痒み止め持ってるから貸してやるよ」
毎度のことだからその辺の用意はバッチリしてきてる。ただ痒み止めは荷物の中に入ってるから、校舎まで行かないといけない。にそう説明すると、彼女は他のマネ達に一時抜けると言いに行ったようだ。俺とが校舎へ歩き出すと「行ってら~」と何故かニヤついた顔で送り出された。
「何だ?あいつら。ニヤニヤして」
俺とが付き合ってることはとっくに知られてるようだし、それが原因かと思った。でもはどこか恥ずかしそうに俺を見上げて「さっき、からかわれたの」と頬を染める。何を?と思ったら、彼女は蚊に刺された箇所を指さした。
「これ、キスマーク?って……絆創膏で隠した方がいいかなぁ」
「……」
やっぱりな、と溜息が洩れた。刺された場所が場所だけに、赤みを帯びてくるとソレっぽく見える。だからこそ刺した蚊に殺意が湧いたってわけだ。
マネ達だけならまだいいが、他の男どもからもがそんな目で見られるかもしれないと思うと、無性にイラっとくるし。
……と言って絆創膏などで隠したとしても、更にそれっぽく見えるだろうから、いい案とも思えない。
「いや、貼らない方がいいだろ。貼った方がそれらしく見えるから」
「え、そうなの?」
「そうなのー。ってことで、メイクポーチとか持って来た?」
「え、メイクポーチ?」
彼女が普段からメイクをしない方なのは知ってる。けど夏真っ盛りの今はさすがに日焼け止めになるような物を持ってきたはずだ。案の定、は「あ、化粧下地用のクリームとかコンシーラーならある。日焼け止め成分のあるやつ」と言った。何だ、そのコントローラーみたいな名前のやつは。
要はファンデーションではないけど、それの下に塗る化粧下地とか、そういった類の色々と必要そうなものを持って来たという話だった。コンシーラーというのは目の下に出来た隈や、シミを隠せるものらしいが、俺にはさっぱり分からん。だいたいの肌にはシミ一つない。彼女曰く慣れない場所での寝泊まりで寝不足になるのを心配したらしい。今のところ一日動き通しで夜は疲れてぐっすり眠れてるらしいが。
「じゃあ薬塗ったあと、それで隠せよ」
「うん、そうする」
これじゃ恥ずかしいもんね、と彼女は顔を赤らめた。その顏は反則すぎる。
寝泊まりしてる部屋へ入って自分の荷物から痒み止めを出す。それを彼女へ渡そうとしたが、ふとその手が止まった
「黒尾先輩?」
目の前にしゃがんだを見ていたら、ちらりと邪な考えが過ぎったせいだ。
今現在、この教室には俺とだけ。邪魔な奴らは全員が体育館だ。そして、俺はこの三日、彼女に一切触れていない。
「ひゃ、く、黒尾先輩……?」
彼女の手を引き寄せ、腕の中に収めると、は驚いたように俺を見上げてくる。その顏はやっぱり赤い。
「……急にどうしたの?」
「んー?まあ……こうすんのも三日ぶりくらいだし、今のうちに抱きしめておこうかと」
にはチビちゃんに見られたことは話してない。もし知ってしまえば恥ずかしがるだろうから。彼女へ触れるのを自粛してたのは俺の勝手な配慮でもある。でも確実に誰も来ないと分かった途端、本能の方が勝ってしまった。
の顎に指をかけて上を向かせると、身を屈めて小さな唇に自分のを重ねる。軽く啄んでちゅっと音を立てれば、まだこういった行為に慣れていないはすぐに耳まで赤くなった。その顏がやたらとそそるし、ついでに首筋の赤みすら扇情的に見えてしまう。俺の脳、どうなってんだ。
つい導かれるよう彼女の首筋へも吸いつくと、ひゃ、という可愛い声が上がった。
「く、くすぐったい……」
「かわい」
「ん、」
赤くなった場所をぺろりと舐めれば、は鼻から抜けたような声を漏らす。好きな女の子ってだけで何でこんなにエッチく聞こえるんだろう。そんな声を出されたら、男の煩悩はすぐに刺激されてしまう。でもさすがに他校の教室でこれ以上のことをするわけにはいかない。ただ、最後に赤くなった場所へもう一度だけ口づけて、ちゅうっと吸っておく。少しちくりとしたのか、の肩がびくんと跳ねた。
「な、何したの……?」
「んー?今ならどっちか分かんねえだろうなーと」
「え、あ……」
彼女のポーチの中から鏡を取り出し首元を見せてやれば、の顔は見事に赤くなった。蚊に刺された場所はさっきよりも赤みを増している。まあ、木を隠すなら森の中ってね、と完全なる確信犯みたいなことを考えた。
「う……で、でも痒みが強くなった……」
「ふはっ。ごめんねー?が可愛いのが悪いわ」
刺激を与えたせいか、痒みが増したようだ。可哀そうだから、そこはしっかり薬を塗ってあげた。
「ってことで、もし何か言われたら蚊に刺されたってホントのこと言っておけよ」
「う、うん……」
未だもじもじと恥ずかしそうにするは、捕食欲を刺激されるくらいに可愛い。他の男どもが目の色を変えるのは当然、頷ける。だけど彼女は俺のものだから誰にも近寄らせたくない。キスマークもどきを付けた理由なんて、そんな男の短絡的思考に過ぎない。そのくせ、そういう目で彼女が見られることも嫌だって思ってんだから、自分でも矛盾してると思う。
「あ、そろそろ戻らないと……またからかわれちゃう」
「だな」
さっきのマネ達のニヤケ面を思い出して苦笑しつつ。そこは素直に彼女の手を引いて体育館へと戻る。虫刺されという前情報があるせいか、結果的に他のマネ達にはバレなかったようだ。けど俺が体育館へ向かうと、入り口付近でゲームに興じてたらしい研磨が座っていて。いつもの冷んやりとした視線が俺を射抜いてきた。
「クロ……アレ、ほんとに虫刺されってだけ?」
「……」
返す言葉もない。勘の鋭い幼馴染だけは誤魔化せなかったようだ。