やらかした、と思った。斑獣はんじゅうを前にして考え事なんかするものじゃない。少しの油断でも命取りになる。分かっていたはずなのに私は失敗してしまったのだ。
あと一秒、彼が来るのが遅ければ、私はきっと斑獣に押し潰されて喰われていたと思う。
死を覚悟していたはずの心が、こうも簡単に恐怖で震えるとは思わなかった。

「何やっとんじゃ……」

呆れたように溜息をついている不愛想で小奇麗なこのイケメンは、掃除屋"アクタ"所属のザンカ・ニジク。
私の教育係兼、護衛だ。どこぞの良家の出とかいう話だったけど、怒らせるとちょっと面倒なくらい説教臭くなる男だった。
教育係だった彼が私の護衛を兼任するようになってから一年になるけれど、未だに私を一人前とは認めてくれない。だから私は――。

「一人で街の外に出るんは禁止言うたはずやけどなぁ。何度言えば分かんのじゃ」
「……家出だもん」
「家出って……何じゃそら。懲りんやっちゃのー。どこも行くアテないくせして。ほら、帰んで」
「……やだ」

地面に座り込んだままの私の腕をいとも容易く拘束するザンカはいつも冷静だ。同じ歳なのに、こういう時だけやけに大人びてる。彼の真面目なとこが嫌い。時々どうしようもなく困らせてやりたくなる。
私のこういうところが子供っぽいのは分かってる。でもザンカの顔を見てると素直に"ごめん"が言えない。

「やだって……お前はガキか」
「ガキじゃないもん」
「ほなら少しは自分の行動を考えないかん。さっきもあやうく殺されるとこじゃ。もう少し自分の人器じんきを使いこなす練習せえ」

子供をあやすようにくしゃりと頭を撫でてくるザンカにカチンときて、その手を振り払う。でもすぐにその手を掴まれた。

「あーあ。せっかく綺麗にしてた爪が割れとる」
「……うそっ」

慌ててザンカが掴んでいる自分の手の先を見れば、確かに左手中指の爪が途中から割れて短くなっている。斑獣の攻撃を避けるのに地面を転がった時に欠けてしまったのかもしれない。
綺麗にマニキュアを塗ったばかりなのに、と悲しくなった。

「もう最悪……」
「誰が悪いん?」
「……」

ふっと笑って私の顔を覗き込むザンカは憎たらしいほどに大人だ。でも全部私が悪いわけじゃないと思う。割れた爪を眺めながらさっきのことを思い出した。
私が苦労して手に入れたマニキュアを塗っていたら、最初に文句を言ってきたのはザンカなんだから。





「そんなもん塗ってどこ行く気じゃ?」

仕事から戻って早々、私の部屋へ顔を出したと思えば、ザンカは不機嫌そうな顔を隠そうともしない。何でそんなケンカ腰で聞いてくるんだと不思議に思った。別にどこへ出かけるとも言っていないのに。

「どこも行かないよ。ザンカがいなきゃわたしは街の外に行けないんだし。ただの気分転換」
「そんなこと言うて前も勝手に繁華街へ出かけたじゃろ。ついでに危ない男に気に入られて追いかけまわされてたのは誰じゃったかのう」
「あ、あれは……あそこに行けば珍しいものが買えるってエンジンに聞いたから行ってみたくなって……あのナンパ男にもキッパリ断ったもん」
「たとえ断ってもしつこく付きまとわれてたなら意味ないやんけ。俺がたまたますぐに見つけられたからええけど、もしあいつが人さらいやったらどうなってたと思うんじゃ」
「う……」

ザンカの言うことはいつも正しい。でも私だって"アクタ"に入って一年。たまには一人で出かけて好きなことをしたい。
したいけど現状、私が外を一人で歩くのは危険が伴うのも嫌というほど理解はしている。
私が"元天界人"だと、ある組織に知られてしまったからだ。そいつらに捕まれば、それこそ"上の奴ら"を憎んでる人達に売り飛ばされて、私は八つ裂きにされるだろう。
だから教育係だったザンカが護衛として私について、どこかへ行く時は必ず同行するのが決まりだった。

「あの組織に捕まれば、天界人を憎んでる奴らに速攻で売り飛ばされんで。"天界人"の値段は一生遊んでも遊び切れん額になるから奴らはどんな手を使ってでもお前を欲しいはずじゃ」
「……わ、分かってる」

とは言ったものの。どんなに憎まれても私だって好きで上に生まれたわけじゃない。あんな血も涙もない親の子供になりたかったわけでもない。天界なんて私からすれば、この下界同様に地獄だ。
上の世界だって全ての人間が裕福なわけじゃないし、むしろスラム街にしか生きられない人間の方が多いくらいだった。下界の人間に憎まれる筋合いはない。
私はスラム街で生まれた上に、まともにご飯にもありつけず、貧しさでイラつく親から殴られる毎日。
だけどある日、私が突如として人通者になった時、虐待への報復を恐れた親はあっさり私を売り飛ばした。
私を買ったチンピラは私を更に貴族へ売り飛ばした。ただの、家畜として。
だから盗んでやったのだ。私をストレスのはけ口に殴り続けた金持ちから、高価そうなイヤリングを。
速攻で見つかって処刑台につるされた私は、奈落の底へ真っ逆さま。
ああ、死ぬんだと思ったのに、気づけば知らない部屋で寝かされていた。
ゴミ溜めの中で倒れていた私を見つけて、掃除屋の本部まで運んでくれたのはザンカだったらしい。

――お前、その変な服着てるっちゅうことは天界人じゃろ?あんなとこに放置したらすぐ人さらいに見つかって売り飛ばされるからな。

話せるようになった時、何で助けてくれたのか尋ねたら、ザンカはそう応えた。
売り飛ばされると聞いて絶望したのは、下も上と同じような地獄だと分かったから。同じ地獄でも落ちた時に死んでいれば、まだ楽だったのに。

ただ、まともな人に救われたとホっとしたのもつかの間。私が人通者だと知ったザンカは私を掃除屋に勧誘し、エンジンと言う男を紹介してきた。

「お前は自由だ。その力を生かして掃除屋になるもよし。ここを出て一人で生きていくのもよし。でもこの世界は女一人で生き抜けるほど甘くはない。"天界人"なら尚更だ」

エンジンはそう話すと「悪いことは言わねえから、掃除屋になれ」と言ってきた。どこが自由なんだと思った。
結局、一人で生きてはいけない女の私は、エンジンに言われるがまま、ザンカの下で修業することになった。
あの強そうなエンジンが推薦するくらいだから、ザンカがそれなりに強いのも分かったし、意外なほど、彼は真面目な性格だった。
ついでに彼が尊敬してるというエンジンから頼まれた護衛まで真剣に遂行しようとしている。口うるさいのだって人器の扱いにムラがある私の心配をしてくれてるからだと分かってる。
だけど、時々無性に腹が立つことだってあるのだ。

「だから出かけないって言ってるのに……私だってお洒落したいの!男のザンカには分からないだろうけど」

売り言葉に買い言葉。ついそんな言い方をしてしまった。悲惨な生い立ちのせいで捻くれてしまった性格はなかなかに厄介だと自分で思う。
でもお洒落をしたいのは本音だ。上では見ることさえかなわない物が、何故か下界には溢れてる。上から色んなゴミが落ちてくるせいでもあるだろうけど、お金さえあれば手に入れることが出来る物の多さに、最初は心底驚いた。
このマニキュアだって掃除屋として働いた給料で買ったものだし、そこまでザンカに口出しされたくはない。
てっきりザンカは何か言い返してくるかと思った。なのにいつまで経っても説教は聞こえてこない。
ふと振り返ると、彼は何とも言えない表情で私を見ていた。

「……何よ」
「別に。でもどこかへ出かけたい言うなら俺も行くからちゃんと報告はしろ」
「……私だって一応人通者なんだし、掃除屋の仕事もしてるんだから近所に出かけるくらい一人で平気だよ」
「じゃから襲って来るのが斑獣だけとは限らん言うとんのじゃ。人さらいに狙われてるのに女一人で何が出来るっちゅうねん」
「それは……」
「奴らは集団で襲って来る。そんなん一人の手には負えないじゃろ?お前を守れと言われてる以上、俺はを守る義務があるんじゃ」

教育係とか護衛なんて、ほんとは面倒だと思ってるくせにそんなことを言う。義務なんて言葉、聞きたくなかった。
だいたい私は死ぬまで誰かに守ってもらいながら生きなきゃいけないの?天界人が下界で生きていくには、それしか方法はないの?
そう思ったら本気で自分の運命を呪いたくなった。
だからつい、ザンカがちょっと部屋を出た隙に本部を抜け出して、行くアテもないのに街の外をぶらついてたのだ。
ほんの少しだけ、もう死んでもいいかなって思いながら。
なのに――死にかけたら怖くなったなんて情けない。それも慌てて探しに来たザンカにまで助けられてホっとするなんて。

「何でそこまでネガティブ思考になるのか俺には分からん。だいたい、出かけない言うてたクセにどこへ行こうとしてたんじゃ?」

さっきの戦闘で汚れた私の服の土を払いながら、ザンカは呆れたような顔で溜息をついた。
どこへ行こうと?そう問われた時、彼の顏が浮かんだ。
エンジン――。
少なくともエンジンは私に優しかった。いつも明るい笑顔を向けてくれるし、時々は私に戦い方を教えてくれる。大人でもいい人がいるんだと私に教えてくれた人だ。

「エンジンがラクガキの街に行くって話してたから追いかけようかと……」
「……は?何でじゃ」

エンジンの名前を出した途端、ザンカの表情が急に翳った気がした。ザンカがエンジンを尊敬してるのは知ってる。だから彼に会うのに出かけたと言えば、そんなに怒られないと思って名前を出してみたのに。

「退屈だったから……?」
「そんな理由でついて来られたらエンジンも迷惑じゃ思うけど?」
「……エンジンはザンカと違って優しいからそんなこと言わない」

言ったあとで失敗した、と思った、明らかにザンカを取り巻く空気が変わったからだ。

「ちょ……ザンカ?」

いきなり私の腕を掴み、強引に歩き出した彼に驚いた。見上げた背中が怒っているように見えて不安になってくる。何か地雷でも踏んだんだろうか。そう思いながら大人しく腕を引かれて歩いて行く。
ザンカはそのまま本部へ戻ると、何故か私を自分の部屋へ連れて行った。

「あ、あの……ザンカ?」

声をかけても私を見ようともしない。何で?と思っていると、掴まれていた手首をグイっと引き寄せられ、気づけばベッドへ押し倒されていた。薄暗い室内で真上に見えるザンカは、やっぱり少し怖い顔で私を見下ろしている。

「な、何……?」
「なにて……優しくして欲しいんじゃろ?」
「……え?」
「女が男に優しさを求めるのは、こういうことじゃろが」
「ザンカ……?」

この一年、一緒に生活をしてきたけど、こんなザンカを見るのは初めてだった。最初はいくら護衛のためでも年頃の男女が四六時中一緒にいるなんてって思った。だけどザンカは思った以上にそういうところは大人だし、私もそこまで警戒なんかしてなかった。というか、ザンカはエンジンに認められることが最優先みたいだから、女という生き物に興味すらないんだろうとさえ思ってた。
なのに――何でこんなことになってるのか教えて欲しい。

「じょ、冗談……でしょ?」
「どう思う?」

そこで初めてザンカが笑みを見せた。でもそれはどこか意地悪で含みのあるものだ。こんな彼を、私は知らない。手首を抑えつけていた手が離れたと思った瞬間、ザンカの指先が私の乱れた髪を梳いていく。どきりとして見上げると、やけに熱の孕んだ瞳と目が合った。
彼の長くて綺麗な指先が、私の額や頬を撫でていく。たったそれだけでピリピリとした甘い刺激が生まれてしまった。

「ど、どいてよ……」

この状況に耐えられなくなって、思わずそんな言葉が零れ落ちる。けど自分でもびっくりするくらい弱々しいものだった。

「いやじゃ」
「ザンカ……っ分かったから……私が悪かった。もう家出はしないし、こんな冗談やめて」

いつものザンカじゃないことが怖くなって素直に謝った。そうすればいつもの彼に戻ってくれるかと思ったからだ。なのにザンカは「信用できん」とバッサリ私の謝罪を切り捨てた。

「あと全然分かってないようじゃから言うとくけど……が思っとるより、俺にとってお前の存在は軽ないんじゃ」
「……え」
「なのにもう死んでもええとか、エンジンの方が俺より優しいとか、そんなん言われて俺が怒らんとでも思うとった?随分と鈍いなぁ」

鈍いと言われてさすがにムっとしたけれど、でも彼の今の言葉たちが全て、怒っているというよりもどこかスネているように聞こえた。普段は先輩風を吹かせて、私のことなんか軽くあしらうザンカが、これほど感情的になるのは見たことがない。

……」

そっと囁かれた名前は、どこか遠くから聞こえてくるような、自分が呼ばれたのではないような甘さを含んでいた。普段より低く、甘く響くその音で、容易く私の鼓動が鳴る。触れてくる指が耳を撫でるように動くたび、頭の後ろが痺れるような感覚が襲う。彼の指があまりに優しい動作で髪を耳にかけてくれるから、じわりと頬の熱が上がってしまった。
あまり表情のない顔は怒っているようにも見えるけれど。でも、どことなくいつもの余裕がないようにも見える。

「俺に優しさ求めるなら……それ相応の覚悟をしてもらわんと」

視界の端で彼のピアスがゆらゆら揺れる。目の前の淡いアザーブルーの瞳が真っすぐ射抜いてくるから、金縛りにあったように動けない。覆いかぶさるように顔が近づいてくるのを、ただ黙って見ていることしか出来なくて。

「そんだけ……俺の愛は重いからのぉ」

意地の悪い笑みを口元に浮かべたザンカは、容易く愛という言葉を口にした。人からそれを向けられたのは生まれて初めてで、不覚にも泣きそうになる。

「好きじゃ……

彼の体の重みも、触れた唇も、全てが甘く感じるほどに恐ろしく。
彼の重力が私を押し付ける。その愛の重みでひれ伏そうとする。
淡く、青く、美しい獣がそこにいた。

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