奴らが動いたのは午後になってからだった。

「後を追う。マットは模木を追ってくれ」

メロはそれだけ言い残して部屋を出て行った。






子供の頃から器用に何でもこなして、適当にいい成績を収めていた俺は。いつも必死にニアを追いかけてるメロの気持ちがよく分からなかった。

「はぁ……片付けんのも面倒臭いし残しておくか」

テレビやビデオ、ゲームといったもので散らかりまくった部屋を見渡しながら溜息を吐く。
どうせ人が来る予定もない。

「あ……そういや……」

ふと夕べ知り合った彼女の笑顔が頭に浮かんだ。

(確か金を返すって言ってたっけ……)

部屋を出て廊下を歩きながら煙草に火をつける。俺としちゃ10ドルくらい別に返さなくていいとは思ったが、あの子は真面目そうな子だったし、言ってた通りきちんと送ってくるだろう。現金だから書留の類だろうか。そうなると対面で受け取る必要がある。

「と言って……ここで待ってる時間もねぇし……夕べの件がメロにバレたら目立つことするなって怒りだすからな」

溜息交じりで車に乗り込むと、ちょうど模木という日本の刑事も建物から出てきたところ。
奴らに見つからないようエンジンをかけて、車に乗り込む模木を尾行する。

(まあ今日受け取れなくても、そのうち彼女の店に行けばいいか……)

ハンドルを切りながら呑気なことを考えつつ、片手でメロに電話をかけた。

『どうだ』
「今、車で移動中だ。そっちは?」
『こっちはどこかのビルへ入っていった。とりあえず目を離すな』
「OK」

一度電話を切り、前方へ目を向ける。どこかにニアの部下がいるかもしれない。
ニアに先を越されたら、それこそメロも怒るどころの話じゃないだろう。
ふとガソリンメーターに目をやり満タンなのを確かめる。夕べ帰りにきちんと入れておいて正解だった、と思い切りアクセルを吹かした。

「逃がすかよ……」

前を走る車を見つめながら、早くこの退屈な追いかけっこのラストが見たい、と思っていた。






「こっちは一歩も出てこない。そっちは?」
『同じだ。ただあの女、もしかしたら第二のキラかもしれない』

あれから二日。アジトを移動してメロとは別行動で奴らを見張っていた。

「第二のキラ?へぇ……あんな可愛い顔して?」
『顔は関係ないだろう。俺に言わせれば頭の悪そーなあの女をよくキラが仲間にしたなって感じだ』
「分かってないな、メロは。女は頭が悪くてもかわいきゃいいんだよ。キラも男ってことだろ?」

ピコピコとゲーム機のボタンを押しつつ言えば、受話器の向こうで特大の溜息が聞こえてきた。
まあ、こんな扱いは慣れている。
ゲームの方は敵キャラに殺され、あっけなくゲームオーバーになった。軽く舌打ちをしてソファへ凭れると、味も素っ気もない室内を見渡す。ここも急遽借りた部屋で、家具もなければテレビもない。あるのはボロっちい、このソファだけ。
どーせ住むわけじゃない、とは言いつつも、こんな部屋に二日も閉じこもっていれば俺のストレスも限界に近づきつつある。

「なあメロ」
『遊びに行くのはダメだ』
「まだ何も言ってない」

メロの素早い切り返しに苦笑しながら煙草を咥える。俺の考えてることなんて、メロは全てお見通しのようだ。

『言う気だっただろ?』
「ここ最近ずっと動きもないし、俺は退屈で死にそうなんだよ。もっと言えば欲求不満なわけ」
『……我慢しろ』
「我慢って……俺はお前ほどストイックじゃないよ。つか自分はSPKの女と会ってるクセにズルイぞ」
『情報をもらってるだけだ』
「へぇ。どうせベッドの中で、だろ――?」

ブツッ!という音の後から、 ツーツーツーツーという空しい音が流れてきた。どうやら電話を切られたようだ。

「メロの奴……切りやがった」

携帯を見下ろしつつ苦笑する。短気なのは相変わらず。

「……ったく。すぐ怒る……あ、あの女のこと突っ込まれて照れたのか?どっちにしろ可愛い奴♡」

軽く吹き出しながら携帯を放ると、今にも壊れそうなソファへ横になる。俺の体重を全て受け止めたせいか、ギシギシと苦し気な音を上げた。

「はぁ……今日もずっと見張りで終わりそうだ。メロのヤツ、よく耐えられるな」

メロとは長い付き合いだが、最近の奴の考えてることはよく分からない。
ニアより先にキラを捕まえる――。
それがアイツの全てなのは分かるが、何もそこまで根詰めなくてもいいのに。
昔はもっと笑う奴だったのにな、と、ガキの頃を思い出してふと寂しくなった。

「あーこんな辛気臭い部屋で一人きりじゃ気分も滅入ってくるな」

ガバっと起き上がり、双眼鏡を掴む。ブラインドの隙間から向かいの部屋を見れば、特に動きはないように見えた。

「ったく……今日も外出しない気か……?だったら俺は出かけるぞ……」

ブツブツ言いながら、それも空しくなってきた頃。俺は双眼鏡をソファへ放り投げた。

「マジで暇だ……というより前に腹減ったな……」

空腹を感じて買いだめしてある食料へ手を伸ばす。そこでまた彼女のことを思い出した。

「そうだ……あの店にでも行ってみるか」

あれから二日も経ってるし、もしかしたら彼女もあのアパートメントへ金を送ってくれたかもしれない。
でも誰もいなければ配達員は送り主の元へそれを返すはずだ。不在だったと聞かされた彼女は、俺に嘘をつかれたと思うだろうか。
今度は双眼鏡も持たないまま、窓の外を眺める。日本警察に今のところ動きはなさそうだし、30分ほど出かけても問題ないだろう、と勝手に結論付けた俺は、すぐに部屋を飛び出した。
あの店はここからも車で数分の距離にある。飛ばせばアっという間についてしまった。
自動ドアを抜けるのと同時に、レジカウンターを見る。でも今日はあの元気な声が聞こえてこなかった。

(あれ……いない?)

レジ前にも店内にも、あの可愛らしい笑顔はなく。俺は少々ガッカリしながら無愛想な女が立つカウンターへと歩いていった。

「ご注文は」

「いらっしゃいませ」も何もなく。素っ気ない言葉で尋ねられた時、何となく拍子抜けしてしまった。
その途端、急に食欲も失せるんだから、心というのは不思議なもんだ。
ただ、ここまで来て何も買わないのもな、と思い直し、「チキンバーガーとコーラ。テイクアウトで」と注文すれば、不愛想なスタッフがレジを淡々と打っていく。この前はあの子の笑顔一つであんなに買い込んでしまった――メロに散々文句言われたけど――のに、今日は仏頂面の女のせいで食欲も失せたあげく、買う気すらも失せる。
これも人間の心理だな、と変なとこで感心していた。

(やっぱ休みなのかな……)

お金を払いながら、もう一度店内を見渡す。でもやっぱり彼女の姿はない。軽く溜息を吐いていると、「あの、お客さま?」と声をかけられハっとした。
視線を戻せば、愛想の一つも見せない女が怪訝そうな顔で袋を差し出している。

「ああ、どーも」

と言って、昔から染み付いてる愛想笑いを浮かべれば、女も僅かながら笑顔を見せてくれた。(俺もまだまだイケるな)
でも誘いたくなるほどの魅力はないし、すぐに帰ろうと歩きかける。でもすぐに足を止めて振り向いた。

「あのさ」
「はい?」

俺が急に振り向くと、その女スタッフは途端に笑顔を作るから笑える。ナンパと勘違いしてるらしい。
その愛想の良さを、もっと仕事に向ければいいのに。
なんて思いつつ。俺も無駄に愛想のいい笑顔のままカウンターの方へ戻った。

「ちょっと聞きたいんだけど……」
「何ですか?」
「ここに……小柄で髪の長い子いるよね」
「え?」
「えっと髪は淡い栗毛で……後ろに縛ってて……ほら大きな瞳で……ちょっと日系人っぽい子」
「ああ……さん?」

俺の説明に耳を傾けていた女は、対象が自分じゃないと気付いた途端、うそ臭い笑みを綺麗に消した。

……って言うの?今日はいないみたいだけど……」
「ああ、だってあの子辞めたもの」
「えっ?」

あっさり言われて驚いた。女のスタッフは苦笑交じりで俺を見上げると、「辞めたって言うより……クビ、かな?」と肩を竦めてみせる。クビ、と聞いてさすがに言葉を失った。あの仕事熱心な子の、どこにクビにされる要素があったのかさっぱり分からない。

「え、何で?何でクビ?」

最初は話すことを渋っていた女だったが、俺がしつこく食い下がれば、仕方ないと言った顔で教えてくれた。

「まあ……ちょっとお客を怒らせたというか……。それでその客がこの店じゃなく本社の方へクレームをしたみたいで。それで店長が上から注意されて、結局あの子を辞めさせることにしたみたい」
「……は?」

いきなりの話で本気で驚いた。
怒らせた客……というのは、もしかしたら先日のへタレ野郎のことなのか?

「その怒らせた客って……あの子がスープかけちゃった件かな」
「ええ、そうだけど……あなた知ってるの?」
「知ってるも何もその場にいたんだ。彼女に非はない。どうしてクビになんか……」

あの男に対して無性に腹が立った。しっかり金は受け取ったくせに、店にクレームだ?
訴えるにしてもあんな小さな件じゃ金がもったいないと思ったのか。
いや、大げさにするよりは本社へ直接クレームをつけた方が自分の言い分は通ると思ったんだろう。考えることが小さすぎる。

「ちなみに……どんなクレームだった?」

俺が訊ねると、女は考える素振りをしながら軽く首を傾げた。

「確か……うちの店員がスープをかけたクセに、ボーイフレンドをけしかけて俺に恥をかかせたとか何とか……」
「……は?そんな嘘を言ってたのか?あのオッサン!」
「え?」

思わずカッとして大きな声を上げると、女はビクっとしたまま目を丸くした。

「ああ、ごめん……それで?」
「え、あ、だから……店長が怒ってすぐ辞めてくれって言ったのよ。まあ……さんは知らないお客様が助けてくれただけですって何度も言ってたんだけど、店長には聞いてもらえなくて」
「……」

そこで言葉を失った。という事は……あのオッサンが俺のことで嘘を言って、結局あの子をクビにしたってわけか?
じゃあ……彼女がクビになった原因は……俺のせいでもあるてことだ。……最悪だ。

「あのさ……その……?って子の家とか分かる?」
「えぇ?知らないわよ……。そんな親しいわけでもなかったし……」
「じゃあ誰か知ってる人とか――」
「さあ?いないんじゃない?それにあの子、自分の家ってわけじゃなかったみたいだし」

女はそこまで言うと軽く笑った。

「どういう、意味……?」

思わず聞き返すと、女は軽く肩を竦めて、

「あの子、天涯孤独みたい。親が殺されたとか何とか……だから遠い親戚の家を転々としてるって聞いたけど」

それを聞いて驚いた。あんなに明るい笑顔を見せていた彼女に、そんな悲しい事情があったなんて。

「親が……殺された……?」
「そうみたい。何でも元々は資産家の娘でお嬢さんだったんだって。聞いた話だと親は相当あくどい商売してたみたいで、
死因も両親ともに心臓麻痺だったていうし……。だから、ほら……キラに殺されたんじゃない?っていう噂があって……て、ちょっと?!」

俺はそこで店を飛び出した。彼女がクビになったのも、彼女の親のことも。色々とたまらなくなったから。
彼女を助けたと思っていい気になっていたけど……結局は俺が余計なことをしたせいで、あの子はクビにされてしまった。
そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
もっと要領よくやっていれば、あんなオッサンに恨みを買わないで済む方法だってあったかもしれないのに。

「クソ!」

車に乗り込み、バーガーの入った袋を助手席へ放り投げた。イライラを納める為に煙草へ火をつけ、エンジンをかける。
彼女があそこを辞めたなら、もう俺にあの子を見つける手段はない。
住所を教えたあの部屋を出なければ、金を送ってくれたであろう、彼女の連絡先が封筒に書かれていたかもしれないのに。
そこに気づいてハっとした。

「そうだ……あの部屋……」

また戻る予定だから、あのまま借りてある。真面目な彼女のことだから、金が送り返されたことで直接アパートへ来てくれたかもしれない。その際にメモか何かを置いていったかも――。
そう考えた俺はすぐにハンドルを切り、今いる場所から数分のアパートメントへ向かっった。途中で携帯が鳴ったけど、今メロと話してしまえば見張りに戻れと言われるだろう。心の中で謝りつつ、そこは無視して大きな道路を吹っ飛ばした。






「ない、か……」

急いでアパートまで戻ってきた俺は、すぐにドアの前に何かないかと探した。でもメモ一枚すら見当たらず軽く息を吐く。
誰かが来たという形跡がない以上、どうしようもない。もう俺には彼女を見つける手段がない。
ここは管理人も常駐してるわけじゃないから、もし彼女が来たとしてもメモを預けることも出来なかったはずだ。

「はぁ……」

何となく罪悪感が胸に広がり、溜息が出る。そして今度こそ仕事に戻ろうと歩き出そうとした。
だが、ふと足を止めて部屋へと戻る。
どうせここまで来たんだし、置いていったゲームのソフトを何個か持って行こうと思っただけだ。

(今の部屋の方は何もないし、戻っても退屈だしな……)

そう思いながら部屋の鍵を開けようとドアノブに手をかける。でも驚いことに鍵は開いたままだった。

「げ、ヤベ……かけ忘れてたか?」

だいたい出て行く時もすぐ戻ると思っていたし、普段から頻繁に鍵をかけていなかったせいもある。
盗られるもんもないし、とよく忘れてたから、今回も同じことをしてしまったらしい。

「ま、いっか。見られちゃ困るビデオとかは運んであるんだし……」

そのまま部屋の中へ入って一応、泥棒に入られてないかチェックする。全ての機器を持って出たわけじゃない。
テレビや盗聴器といったものは置きっぱなしだし、そういった物は案外高く売れるから盗まれてても不思議じゃない。

「お、盗られてない」

部屋に入ってすぐテレビが見えてホっと息を吐く。でも次の瞬間、出て行った時とは明らかに違う部屋の雰囲気に驚いた。

「え、何だ、これ……地味に……綺麗になってる……?」

それほど広くもない部屋をキョロキョロ見渡すと、やっぱり出て行った時よりも綺麗に片付いてる気がする。
部屋にある家具や電化製品は確かに俺達が購入した物で間違いないから、後から違う奴が入居したという感じでもない。
まあ契約したままなんだし当たり前だけど。

「どういう……ことだ?まさかあのメロが掃除に戻って来たなんてことは……さすがにないか」

溜め込んだテイクアウトのゴミや、お菓子類の袋。使い捨ての皿が散乱していたテーブルの上も、今じゃ綺麗に片付いている。
こんなこと間違ってもメロはやらないだろう。

「じゃあ誰が……」

少々薄気味悪く思いながら、いつも腰をかけていたソファへ座る。
だがその瞬間――むにゅっと柔らかいものを踏んづけて、驚いた俺は再び立ち上がった。

「な、何だ、今の――」

何とも言えない恐怖を覚えつつ、恐る恐る後ろを確認しようと振り返れば――。

「……はっ?」

その正体を視界に入れた瞬間、俺はまさに字のごとく目が点になった。

「……ん」

可愛く寝返りを打って再び寝入る彼女を見て、開いた口が塞がらない。

「嘘だろ……?」

ソファで眠っていたのは、まさに俺が探していた例の女の子だった。






――何だ?何で彼女がこんなとこで寝てる?しかも気持ち良さそうに……。

あまりに驚きすぎて思考が定まらない。そもそも考えたところで理由が分かるはずもない。
その時、ふとソファの足元に置いてある袋が視界に入り、しゃがんでその中を覗いてみた。

「……何だ……これ」

ずっしりと重たい袋の中には、何故か缶詰が沢山入っている。それも――。

「……何で犬缶?」

一つを取り出し、マジマジと眺める。でもそれは一向に姿を変えず――当たり前――俺の手のひらで神々しく輝いていた。

「……ん、ぁれ……?」
「――ッ!(ビクッ)」

動く気配がして振り向くと、彼女はかすかに腕を動かしながら寝ぼけ眼で目を擦っている。そしてゆっくりと目を開けると、固まったままの俺をボーっとした顔で見上げてくる。
目が合ったから条件反射でニカッと笑えば、彼女はギョッとした顔で起き上がった。

「あ、あれ、えっと……」
「や、やあ」

かろうじて笑顔は作れたものの。やっぱり口元が引きつる。しかも手には犬缶を持ったままっていうのもマヌケすぎだ。
だいたいこの状況で「やあ」もないだろう、俺。

「え、えっと君は……ここで何を――」
「わ、ご、ごめ……ごめんなさいっ」
「え?」

寝ぼけていたらしい彼女は、やっと状況が脳内まで到達したらしい。わたわたとしながら立ち上がった。

「あ、あのっお金を返しに来たんですけど誰もいなくて……だから封筒を置いて帰ろうと思ったんですけどドアが少しだけ開いてて、それで――」
「あ、あのちょっと落ち着いて……別に怒ってないからさ」

動揺してる彼女の肩を掴み、再びソファへ座らせると、俺も気持ちを落ち着かせて状況を整理した。

「えっと……まず君がここにいるのはお金を返しに来てくれたってことであってる……?」
「……は、はい。あ、あのこれ……」

そう言って彼女は慌てた素振りでバッグから封筒を出すと、俺にそれを差し出した。とりあえず受け取っておく。

「それで……ドアが開いてたって?」

もう一度尋ねると彼女は小さく頷いた。

「はい……。それでやっぱりいるのかな、と思って僅かに開けて声をかけたんです。でも返事がないし……なかなか帰ってくる様子もないから、どうしようって思って……」

彼女は必死に説明してくれている。そこで俺は改めて自分のドジさに頭を項垂れた。

(そうか……俺は鍵を閉め忘れただけじゃなく、ドアもしっかり閉めてなかったってことだな)

メロにバレなくて良かった。アイツはああ見えてそういう細かいところにうるさいのだ。
内心ホっとしていると、彼女は申し訳なさそうな顔で俺を見上げた。

「でもドアが開いたままだとお金も置いていけないし、今度は帰るに帰れなくて……その、」
「あ、ああ……そっか……。ごめんね。俺の不注意で。まあ……見ての通り、盗られる物もここには置いてないんだけど」

そう言って笑うと、彼女もやっと笑顔を見せてくれた。

「もしかして……無用心だから留守番しててくれたってこと?」

ふと、そこに思い当たって尋ねれば案の定、彼女は小さく頷いた。
そうか……。この子は無用心だから俺が帰ってくるまで待っててくれたんだ。
多分そう……昨日から。
そこに気づいた時。散らかってた部屋が綺麗になっていた理由も分かった。
あまりに散らかしてあったから、彼女はきっと見るに見かねて掃除をしてくれたに違いない。
でも彼女がここで一泊したとして。家の人は心配しなかったんだろうか、と思ったと同時に、先ほど聞いた話を思い出す。

(そうだ……彼女は両親を殺されて親戚か誰かの家に世話になってるってことだったっけ)

「あ、あの……すみません。勝手に上がりこんで……あげく寝ちゃったみたいで……」
「い、いや。こっちこそ……掃除までしてもらっちゃたみたいで、ありがとう」
「え、あ……いえ。待ってる間は暇だったので……」

お礼を言うと、彼女は照れくさそうに微笑んだ。その笑顔はあの日見た笑顔と同じ。やっぱり可愛いなと素直に思う。

「あ……そうだ」

彼女の笑顔に見惚れてる場合じゃない。さっき聞いたばかりの話を思い出し、俺は彼女に頭を下げた。

「ごめん、俺のせいで」
「……え?」

いきなり謝ったことで彼女は一瞬キョトンとした。

「あ、あの何で……あなたが謝るんですか?」
「……いや。実は今、君の働いてた店に行ってきたんだ」
「え……」
「俺も仕事で少しの間ここを離れなきゃいけなかったし、もしかして君がお金を送ってくれたか、届けに来てくれたのかなって気になっててさ。でも店に行ったら君はいなくて……辞めたって聞いたんだ。しかもあのオッサンのクレームのせいでクビになったって……」

俺がそこまで説明すると、彼女は慌てて首を振った。

「あ、あのそれは別にあなたのせいじゃなくて、元々私の不注意ですから」
「いやでもさ。あそこで俺がオッサンを怒らせなきゃ、クビにはならなかっただろ。俺がわざと怒らせたようなもんだし……ほんと悪かった」

そう言って両手を合わせれば、彼女は大きな瞳をますます大きくして可愛い笑顔を浮かべた。クビになって散々な目に合ったはずなのに、こういう時でも笑顔を絶やさないなんて、強い子だなと思う。

「……優しいんですね、そんなことで謝るなんて」
「え、いやだって――」
「でも……気にしないで下さい。あの店も実は見習い期間中で、ホントに雇ってもらえるかも分からなかったから……」

そう微笑む彼女は、とてもクビにされたばかりの子とは思えないほど、透明で澄んだ目をしてた。理不尽なことでクビにされたんだからもっと怒ってもいいはずなのに、愚痴すら言わない。

「あ、あのさ……」
「あ、いけない。そろそろ帰ります」
「え?」

まだ聞きたいことは山ほどあるのに、彼女は唐突に立ち上がった。

「え、もう?」
「ええ、だって部屋の主が戻ってきたんだし、留守番の必要もないでしょ?」
「あ、じゃあ……送ってくよ。家、どこ?」

そう言って俺も立ち上がると、彼女は慌てて首を振った。

「いいです、悪いです」
「いいって。俺、車だしさ。もう薄暗いし危ない」
「でも……大丈夫です」

そんなにあっさり拒否されると何も言えなくなった。
まだ名前さえ聞いてないってのに。

「あ、じゃあ……どこに住んでるの?俺、何かいい仕事あったら探しておくよ」
「い、いいです、そんなことまでしてもらえないし――」
「いや、でも俺のせいでもあるし何かしたいんだ。あ、だから住所とか携帯番号とか、何か連絡先でも……」

そう言ってすぐに自分の携帯を出す。でも彼女は困ったように目を伏せてしまった。
ちょっと強引だったかなと不安になった時、彼女が小さく息を吐いて俺を見上げた。

「あの……お気持ちは嬉しいんですけど……会ったばかりの方にそこまでしてもらうのは……」

ああ、やっぱ迷惑だったのかも。
そうだよな。俺みたいな胡散臭い男に仕事なんて世話されたら後が怖いって思うのが普通だ。ヤバい仕事かも、と警戒してるってことか。

「じゃあ……ほんとにありがとう御座いました」
「いや……こっちこそ……留守番と掃除、ありがとう」

半分、諦めて彼女をドアのところまで送ると、「今度から鍵を閉めて出てくださいね」と言って微笑んでくれた。
やっぱり可愛い、なんて思いながら、ふと彼女の名前をまだ知らないことに気づく。

「あ、俺……マット。君は?」
「あ……えっと、といいます」
「……

思ったとおり、名前も綺麗で彼女にピッタリだと思った。

「それじゃ……」
「うん」

何となく名残り惜しく思いながらも、彼女に笑顔で手を振る。でもそこでさっきの袋を思い出し、「待って!」と声をかけた。

「これ、忘れてる。君のだろ?」

急いで部屋の中から持ってきた犬缶の入った袋を差し出せば、彼女はキョトンとした顔で俺を見上げた。

「あ……これ差し入れのつもりで持ってきたんです」
「……へ?」

犬のエサを差し入れ、と言われれば、さすがに俺も驚いた。でもその理由を聞く前に、彼女は部屋の方へ視線を移す。

「確か犬がいるって言ってましたよね?だから持ってきたんですけど……部屋にいないので一緒に連れていったのかと思って」
「え……?」

(はて……犬?俺、犬がいるなんて言ったっけ……)

必死に彼女とのこれまでの会話を思い出そうと脳みそを働かせる。最近は単純作業な覗きや尾行ばかりやっていたし、脳が少し機能不全だ。どうもパっと思い出せない。
こんなに短時間で必死に脳を動かしたのは、ワイミーズで行われたLとの勉強会以来かもしれない。(!)

「あの……ほら、この前、"俺んち凶暴な犬もいるし……"って」
「……あ」

必死に考えてる俺を見かねたのか、彼女が笑いながら教えてくれた。
そうだ、言った。確かに俺は"凶暴な犬"が……なんて言った気がする。
でもそれは本当の犬じゃなくて――。

「――おい!マット!ここで何してんだ!」

「――ッ?!(げ!凶暴な犬――!!)」

背後からメロの怒鳴り声が聞こえてきた瞬間。俺と彼女はその場に固まってしまった――。