縫合した夜と朝のあわい-04




 静かな室内、夜通しゴホゴホと女の咳が響く。熱も上がり始めたのか、は苦しげな呼吸を繰り返しながら、一時うつらうつらと眠りについては、また咳き込んで目を覚ますといったことを繰り返していた。そのたび俺がいることを確認して、安堵の表情を浮かべる。
 本当におかしな女だ。俺の正体を知ってもなお。普通に接してくるのも、こうして傍にいて欲しがるのも。俺が女を喰らわないと知って安心しているといった感じでもない。普通の人間ならそれでも少しは怯えるものだ。いくら一時、自らの命を断とうと考えていたとしても、生きるもの全てに死を恐れる本能がある。
 なのに――にはそれが全くない。俺の中の常識も通用しない。本当に……おかしな女だ。

「ゴホ……」

 ぼんやりしていると、また咳の音が聞こえて思考が遮断される。ふと見ればは同じように首を動かし、俺の方へ手を伸ばしてきた。その火照った手をとり、「ここにいる」と呟けば、はかすかに笑みを浮かべた。何度となくこれを繰り返している。そのたび、俺の中の何かがざわめく。思い出せ、と言われてる気がする。けれど何を忘れているのかも、思い出せばいいのかも分からない。まるで誰かに置いて行かれたような気分になった。
 その時、窓の外から雨の降り出す音が聞こえてきた。

「また雨……」
「そうみたいだな。寒いのか?」
「いえ……今は暖かいです。猗窩座さんが手を握ってくれてるので」

 そう言われて気づいた。彼女の伸ばして来た手を握ったままだということを。完全に無意識だった。

 「チッ。いいから寝ろ」

 握っていた手を放して言えば、は薬を飲まないと、と少しだけ体を起こした。夕餉の後に熱さましの薬は飲んだものの、咳が止まらないようなら、と医者が咳止めを処方してくれたらしい。
 は枕元にある包みを開き、粉状の薬を口へ含むと水でそれを流し込んだ。

 「ん、苦い……」
 「薬はそういうものだろう」
 「そ、そうなんですけど、苦手で……猗窩座さんは飲んだことあるんですか?」
 「俺が?あるはずがない。そもそも鬼はそんな病にはかからない」
 「そ、そうですよね。すみません。薬を知っているような口ぶりだったので……」
 「……想像で言ったまでのこと。いいから寝ていろ。悪化したら困る――」
 
 まただ、と思った。このやり取り、前にもしたような気がする。と話してると必ず襲ってくる懐旧かいきゅうの情は何なんだろう。を見ていると誰かの面影が重なって見えるのは、何ともいえない苛立ちとむず痒さがある。この場から去ってしまいたい、と思うのに、何故か離れがたい、そばについてなければいけない、という気持ちになるのは何故なのか。
 薬が苦いと言いながらはにかむを見ていると、俺の意志とは関係なく口元が緩みそうになる。手を伸ばし、その華奢な体に触れてしまいたくなる。これは鬼の食欲とは関係のないところで、そう感じている。そんな気がしていた。

 「起きるのか?」

 は薬を飲んだあとも布団の上に座り、俺の方へ視線を彷徨わせた。

 「寝て起きてを繰り返していたら少し目が覚めてしまって……」
 
 は言いながら俺の方へ向き直ると「手ぬぐい、乗せてくれてありがとう御座います」と頭を下げた。一瞬、呆気にとられる。
 
 「何のことだ」
 「起きるたび手ぬぐいが額にあったので」
 「チッ……オマエには早く治してもらわないといけないからだ」

 そう、それだけのことだ。の持つ花の情報。俺の目的はそれだけだ。なのに、こんなところで俺は何をしているんだと再び苛立ちがこみ上げてくる。感冒如きで床に伏せなければいけない弱者など、捨て置けばいいものを。
 は未だ咳き込みながらも寝ようとはしない。寝るどころか俺の方へ近づき、手の甲へそっと自分の手を重ねてくる。
 
 「何を――」

 思わず触れるな、と振り払おうとした。しかし、どういうわけか俺の手はぴくりとも動かなかった。少しでも力を入れれば壊してしまうという思いが、俺の中に僅かでもあったのかもしれない。だが、それはこの女を壊せば情報をもらえなくなるからだ。他に理由などない。
 は俺の左手を両手で包み、慈しむように優しく撫でた。呆れた女だ、と言葉を失う。この手が何百人、いや。それ以上の人間を切り裂いてきたというのに、はまるで壊れ物を扱うみたいに触れてくる。また、俺の脳が錯覚しそうになった。
 この優しい手を、俺は知っている、と――。
 
 「暖かいです。猗窩座さんの手」
 「何をしている。放せ」
 「すみません……眠っていた時、誰かの暖かい手に触れられたのを思い出して。あれは猗窩座さんだったんですね」
 「熱をみるのに触れただけだ。鬼の手は氷のように冷たいとでも思ったか?」
 「いいえ……いいえ。そうじゃなくて……」
 
 はそこで言葉を切ると、ふと顔を上げて俺を見つめた。相変わらず視点は僅かばかりズレてはいるものの、その月明かりのような静かな光を灯す瞳には俺の姿が映っている。色白で痩せこけた黒髪の――。
 
 「……っ」
 「猗窩座……さん?どうかしましたか?」

 一瞬、見覚えのない顔が過ぎって息を呑む。しかしもう一度見直すと、心配そうに揺れる瞳には鬼の姿をした俺が映っていた。
 何だったんだ、今のは。見間違いにしてはやけに鮮明だった、と軽く頭を振った。といるとおかしな気分になる。

 「あ、あの……大丈夫ですか?」
 「何でもない……っそろそろ放せ。夜明けも近い。眠らないなら俺は帰る」

 そう告げてもは黙って俺を見つめている。どこか悲しげに瞳を揺らす。鬼の俺に縋るほど、寂しいとでも言いたげに。

 「あまり見るな。不愉快だ」

 一点の曇りもないの瞳は、今の俺を鮮明に映す。全てを見透かされそうな気分にさせられる。それがどうにも落ち着かない。
 しかしは「この薄暗い部屋の行灯の灯りだけではまるきり見えません」と微笑んだ。

 「昼間なら全ては見えなくとも顔かたちや風貌くらいは薄っすら見えるのに……」

 はそこで言葉を切ると「猗窩座さんとは……昼間に会えないのですよね」と呟いた。例の鬼狩りにでも聞いたんだろう。鬼が太陽に弱いと知ってるらしい。どこか悲しげに目を伏せる。

 「昼間に会えたなら……猗窩座さんの姿が少しは見えるのに」
 「見てどうする。鬼の姿などお前ら人間にしてみれば恐ろしいだけだろう」
 「他の鬼は知りませんが……猗窩座さんならどんな姿だとしても怖くはありません」
 「はっ。見たこともないくせに何を――」

 今度こそ握られている手を払おうとした。でもその手を逆に引き寄せられたと思った瞬間、のもう片方の手が頬へ触れる。驚いた刹那。唇に柔らかいものが押しつけられた。それは俺の唇を塞ぎ、かすかな温もりを与え、一時、俺の中の時間が止まった。何が起きたのかを考える間もない。脳裏に花の紋様をした火花が散った気がした。
 それは懐かしくも美しい、切ない輝き。闇夜を照らす花火のように見えた。唇が燃えるように熱い。
 この行為を何と呼ぶのか、俺は知っている。覚えのない沢山の光景が、走馬灯のように駆け抜けていく。

 ――……治さん。
 
 柔らかい声が聞こえて、思わず目の前の温もりへ手を伸ばす。だがその暖かい体を抱きしめた瞬間、体の芯まで凍り付く声が響いた。
 ――猗窩座!
 ハッと息を呑み、我に返る。自分が何をしていたのかすら一瞬記憶は曖昧だったが、誰かの温もりに気づき、今度こそ驚愕した。腕の中にいた、存在に。
 
 「猗窩座……さん?」

 突然離れた俺に驚いたのか、が不安そうな声を出す。どくどくと心臓が早鐘を打ち、額に不快な汗が浮かんだ。まるで命を脅かされているような恐怖の戦慄。どこか夢現だった思考がハッキリと現実を映し出した。

 「俺に……かまうな」
 「あ、あの、ごめんなさい。私……」
 「帰る……」

 唐突に立ち上がれば、は「猗窩座さん……」と泣きそうな顔で見上げてくる。その顏を見ているとまた何かに引き寄せられそうで、本能的に視線を反らした。

 「次、俺が来る時までに病を治しておけ」

 それだけ言い残し、俺は外へと飛び出した。見れば遠くの空が白み始めている。だが雨雲のせいか、辺りはまだ暗い。これならまだ動けるだろう。屋根伝いに飛び、雨の中を駆けて塒へ向かう。
 息苦しいほどの鼓動は未だ俺を痛めつけるかのようにうるさかった。
 何が――起きてる?
 覚えのない記憶。突然襲う懐旧の情。鬼の俺にあるはずもない慰撫――。
 すべてがあり得ない。こんな風に感じたこともない。なのに、今もかすかに後ろ髪の引かれる思いだけが残っている。

 「チッ……気持ち悪い……」

 無意識に唇を拭う。冷たい雨に打たれている内、少しずついつもの感覚が戻ってくる。なのに唇を重ねた熱だけは、いつまでも俺の中で燻り続けていた。


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